令和二(二〇二〇)年冬、日本の映画興行収入を塗り替えた「鬼滅の刃」は社会現象となり、人を食らう鬼を退治するアニメブームは各地に「聖地」を生み出しました。滅鬼の名前を持つ、標高一〇四〇m「岳滅鬼山(がくめきやま)」も鬼滅の山として登山客が増えています。「岳滅鬼山」は英彦山の南西に位置し、天領日田と豊前国を分かつ山で、山裾には英彦山参詣道「日田道」峠道の「岳滅鬼峠」があり、「従是豊前国小倉領」の国境石が立っています。多くの文人墨客がここを通って英彦山参詣を行い、また山伏が英彦山から太宰府宝満山へ峰入を行う修行道とも重なり、文化の交差点となっていました。
平安時代から鬼は数々の物語に登場しますが、人を食らう鬼のイメージで著名なものとしては京の丹後にある「大江山」に住む酒呑童子(しゅてんどうじ)を討伐する物語があります。この謡曲では源頼光が坂田金時、渡辺綱らとともに「彦山山伏」に扮して、酒に酔わせて油断をさせ打ち取るという筋立てとなっています。
英彦山にも鬼にまつわる伝説があります。
むかし、英彦山には乱暴をはたらく、多くの鬼が住んでいて、困った英彦山権現様は鬼たちに「一晩でお前たちの住む大きな家を作ることができたならここに住まわせてやろう」と言いました。鬼たちは喜んでセッセと家を作り始めました。できるはずがないと思っていた権現様でしたが、心配になり覗いてみると、本当に一晩で出来上がりそうになっていました。「まずいことになった」とあわてた権現様はタコンバチという傘を両手にかかえ、パタパタという羽音をたて、「コケコッコー」と一番鶏のなきまねをしました。鬼たちは朝が来たと思い、がっかりして逃げていくと鬼の残した材木は石となり、指示をしていた鬼の頭領が持っていた杖を地面に挿すとたちまち大きな杉の木になりました。それが「材木石」と「鬼スギ」となったということです。鬼が逃げて行った山を岳滅鬼と名付けたといわれています。
英彦山文書『塵壺集』には「昔、雷請という鬼が大岳丸という土蜘蛛の首領の一味を従えていたが、毘沙門天に降伏し、守護の鬼神となった」という伝承も残されています。
鬼は討伐されると、神として祀られるようになり、英彦山でも行者が籠り修行する第一般若窟の鬼神社に祀られました。『塵壺集』には正月二日修正追儺祭(鬼会)が行われ、鬼面を着け鬼神に扮した山伏と綱引きをすると、十人掛りでも勝てなかったといわれています。
材木石は大きさで「小材木」、「大材木」の二種類に分かれますが、何れも南岳山麓の中腹にあります。英彦山から耶馬渓地域は新第三紀の更新世(五〇〇―一七〇万年前)の火山岩が広く分布する地域で、剥き出しの岩塊が連なる特徴的な岩峰群が見られます。英彦山は両輝石安山岩を主体として角礫凝灰岩で被覆されていて、溶結性凝灰岩が八角柱状節理の割れ目があることから、古くから「鬼の材木岩」として文書や古絵図に掲載されています。弥勒浄土の要所として『彦山縁起』には「山の南に弥勒石材あり、第四の都卒天に擬す」とあり、また『英彦山霊験記』に「叡山の僧侶が生身の弥勒を拝するには筑紫の彦山の材木岩を拝むべしということから有難い弥勒の石一基を叡山に持ち帰り、像を彫って堂に安置した」と伝えています。
鬼スギは樹齢一二〇〇年以上、幹回り一二.四m、樹高は落雷により折損し、三八m余りですが、もとは六〇mほどあったものと推察されます。福岡県下最大の杉の巨木で、幹回りが一二mもある杉は屋久島の縄文杉に次ぐ規模のもので、林野庁が選定した「森の巨人たち百選」にも選ばれています。
鬼スギの周りには樹齢数百年を超えるような杉の巨木群が林立していましたが、平成三(一九九一)年の一九号台風の猛威で倒壊してしまい、鬼スギも大枝が落枝しました。従来、英彦山から東峰村にかけては杉の巨木群が林立していました。これは行者山伏が大宰府宝満山へ向かう峰入修行の重要な行場に植えたもので、特に東峰村の深仙宿の行者堂周辺には大王杉をはじめ七三五本もの杉の古木林があります。杉は神のヤドリギとして、あるいは神を祀る社殿を作る材料として、英彦山では大切に守ってきました。
江戸時代には英彦山中岳中腹の中宮付近の千本杉に苗を植栽したことや玉屋谷に玉泉坊が二万本の杉苗を植栽したことの記念碑があり、古くから木を植え、森林を山伏が守ってきたことがわかります。その象徴が鬼スギで玉屋谷の奥深くの大南に隆々として聳えていて、神となった鬼たちが人々の登山の安全を見守っています。