農耕神「豊前坊」への崇敬
英彦山は天狗の山としても知られ、厳しい修行の末に徳を積んだ山伏が天狗の強力な験力を得ると信じられていました。天狗は多くの謡曲や歌舞伎などに登場し、江戸時代には浮世絵の題材になって、山伏の衣装に鼻高の厳めしい顔、羽団扇をもった姿が定着しました。英彦山でも土産として天狗の陶面や土鈴などが親しまれています。
英彦山天狗の住む場所は、英彦山神宮境内地の北東側の鷹巣(高天原)にある一〇〇丈(三〇〇m)ばかりの岩山にある岩窟で、「望雲台」と呼ばれる一三〇mほどの断崖絶壁や屏風岩、逆鉾岩などの奇岩に富んだ天狗の住むにふさわしい景勝地です。ここに「豊前坊」という九州天狗の頭領の大天狗が住んでいて、数々の霊力をおこすといわれています。また、日本八天狗にもあげられ「筑紫の豊前坊」として様々な物語や説話で活躍します。
この位置は英彦山法躰岳(北岳)の登山口で、周防灘に灌ぐ今川の源流としても知られており、英彦山四十九窟の第十八窟豊前窟という英彦山山伏の修行の参籠窟屋として社が懸けられて、現在は「高住神社」と呼ばれています。
古来、豊前坊は役行者が英彦山で三季入峰の修行を行った際、蔵王権現が示現(じげん)した場所とも言われ、竹台(ちくたい)権現とも称されています。英彦山文書の『鎮西彦山縁起』には「豊前屈(ママ)社者本地大聖大日如来之變化身即豊前房也」とあり、豊前窟は大日如来の変化身である豊前坊を祀る社としています。『竹台豊前坊秘密法』(英彦山高田家蔵)にも、「大日如来を本地とする豊前坊が不動明王となり、衆生の心願を満足させるため天狗の姿を借りた」ことが記されています。このことから、豊前坊は人々の行いを戒める異形の神として深く崇敬され、「天狗の社」には多くの参詣者が集いました。また、祭神は豊国(豊前・豊後)の守護神の豊日別国魂神(とよひわけくにたまかみ)、日神の天照大神命(あまてらすおおみかみのみこと)、稲穂農耕神の天火明命(あめのほあかりのみこと)、鎮火神の火須勢理命(ほすせりのみこと)、禁厭医薬(きんえんいやく)神の少名毘古那命(すくなびこなのみこと)の五神が祀られており、いずれも農耕と豊穣にまつわる神であることから多くの参詣がありました。特に牛馬の守り神としての信仰が篤く、今も行われている「牛くじ」では、古来一等賞品は子牛一頭でした。
英彦山天狗の物語
山伏や天狗は室町時代から能謡曲や物語に多く登場します。俗に「天狗物」と呼ばれる名作が多く生み出されました。英彦山天狗が登場する話も多くあり、「鞍馬天狗」、「花月」などが有名です。
「鞍馬天狗」は遮那王牛若(源義経)に京の鞍馬山大天狗が剣の手ほどきを行い、平家打倒に備えるという筋書きで「そも/\これは鞍馬の奥僧正が谷に年経て住める大天狗なり。」「まづ、御供の天狗は誰々ぞ、筑紫には彦山の豊前坊」とあり、豊前坊も鞍馬僧正坊の供の天狗として牛若に剣術の手ほどきを行っています。
「花月」は英彦山麓の津野谷の住人左衛門が、七歳の息子「花月」が英彦山で天狗にさらわれ行方不明になったことをきっかけに出家し、諸国修行の旅に出て、京の清水寺で運命の出会いを果たすという筋書きとなっています。見どころは花月少年の「芸尽くし」で天狗にさらわれた後に諸国を巡り、京の都へ辿り着いた花月は遊芸師となり、曲舞や鞨鼓(かっこ)を打つ舞などが狂言師の見せ場となっています。英彦山神宮下には天狗にさらわれた場所という「花月の坐石(すわりいし)」があり、英彦山麓の上津野地区に「花月屋敷」と呼ばれる住家跡があります。
浮世絵では「小早川隆景彦山ノ天狗問答之図」の話があります。文禄元(一五九二)年から「唐入(からいり)」と称して始まる朝鮮出兵に備えて、豊臣秀吉は小早川隆景に韓半島まで渡る造船を命じます。英彦山にはクスの大木がたくさんあったことから、それを使って軍船を造れと命じました。隆景は英彦山に出向き、関白殿下の命を伝え、渋る座主を屈服させましたが、その時、忽然と突風が吹いて大天狗が現れ、「開闢(かいびゃく)以来、神聖なこの山木を倒伐することは無かった。この山の木を切るとは神仏をも恐れぬ悪逆である」といいました。これに対し、隆景は「関白殿下は天皇に代わって天下を治めている。英彦山も天下の内にあり、その命に背くことは天下の下知に背くことで反逆である」といい、大天狗を説き伏せました。この時以来、英彦山には大クスが無くなったといいます。今も豊前坊天狗が杉の梢から、世の中の悪行を見張っていることでしょう。