九州は石造物の宝庫と言われるほど多くの石造文化財が存在します。特に大分県の国宝臼杵(うすき)石仏群に代表されるように、多くの磨崖石仏(まがいせきぶつ)などが造られました。これは火山とも密接に関係していて加工しやすい阿蘇火砕堆積物(かさいたいせきぶつ)の溶結凝灰岩が各所に露呈し、それを材料として石造仏師が巧みに岩に仏を刻みました。修験道との関連が深く、末法思想の影響もあり、山伏などが関与して平安時代末以降多くの石仏や石造曼荼羅(まんだら)が造営されました。
英彦山関連で最古の石造物は庄内町筒野権現谷(飯塚市)にある五智如来八葉曼荼羅板碑で養和二(一一八二)年僧圓朝が勧進したものです。この板碑は上部に五智如来、中段に大日如来を主尊とする八葉梵字と四天王梵字、下段に半肉彫りの英彦山三所権現像を彫りつけています。平安時代末には英彦山三所権現の像容が確立し、庶民にも広く信仰されていたことを示す貴重なものです。
これに次ぐものとして、英彦山第八今熊野窟の磨崖仏と梵字岩があります。この磨崖仏は全国でも希少な銘文のあるもので、造営の理由、勧進僧、年代、作者名が岩壁に刻まれています。銘文には「この事業の勧財、勧募に努めたのは金剛仏子(こんごうぶっし)(密教の修行僧)の(名称不明)です。一字三礼の作法で法華経を書写し納めました。石面に阿弥陀三尊像を造り、(英彦山)三所権現の建物を建立しました。また円形の月の輪を描き、大日の梵字を刻みました。右の志は僧慶春や先生、先輩たちのために、そして貴賤を分かたず、一切の精霊のために、後の世に全ての人に平等にご利益が行き渡りますように供養いたしました。嘉禎三(一二三七)年六月中旬 筆をとったのは両界院門の金剛仏子僧妙文房です」とあります。
『彦山流記(ひこさんるき)』には第八今熊野窟の条に「宝殿八間、熊野十二所権現、若王子権現など悉(ことごと)く奉り、神殿の前に大きな尖岩があり、仙人が籠(こも)って修行しており、耳をすませばかすかに鈴の音が聞こえてきます。(内の)腰窟には千手観音を祀り、傍らの岩に阿弥陀三尊の金色像が刻まれています。また、その横に直径が一丈(三m)もある三つの円形の月の輪を描き、その中に釈迦、阿弥陀、大日如来の三尊の梵字が刻まれています。ここを通窟といいます。」と書かれています。
岩壁の銘文と『彦山流記』の記述が合致することからこの場所が第八今熊野窟であることが分かりました。梵字は大きな月の輪の中に刻まれ、中央がアーンク(胎蔵界大日如来)、左がバク(釈迦如来)、右はア(阿弥陀如来)の胎蔵界三仏が刻まれ、岩壁尊像は勢至菩薩(せいしぼさつ)で、阿弥陀三尊の左脇侍で、本尊阿弥陀如来と右脇侍聖観音菩薩は既に失われていました。昭和五八(一九八三)年には落下岩に聖観音菩薩が発見され三尊仏であったことが証明されました。近年の調査で九州大学教授知足美加子氏がレーザ測量等により三尊仏の復元を行いました。鎌倉時代以降熊野信仰や新仏教の影響が英彦山にも流入し、密教僧による修行や信仰にも変革を及ぼしたことが分かります。その影響は英彦山山内にとどまらず、福智町方城には岩屋磨崖梵字曼荼羅が存在しています。この場所は英彦山の峰入り行場で、福智修験との関係が深いものです。この梵字曼荼羅は珍しく、金剛界曼荼羅の四印会部分のみを表現したもので金剛界大日如来を中心に菩薩梵字が刻まれています。下部には願主良密というが僧が関与して建武二(一三三五)年に造営したという記述があります。また遠く薩摩地方にも影響を及ぼし、鹿児島県南九州市川辺には英彦山山伏が造営に関わったことが銘文にある弘長四(一二六四)年の清水磨崖梵字群があります。中世以降、英彦山山伏が広範囲に亘って活発に活動し、英彦山信仰を広めていったことを示すものとして貴重です。