英彦山神宮の御潮井採りは、往時英彦山最大の行事であった「勅宣度松会祈年祭(ちょくせどまつえきねんさい)」の前行として行われる行事でした。今も御田祭、神幸祭の前のお浄めのため「山中祓(はら)い」をする神事として行われています。
文安二(一四四五)年の『彦山諸神役次第』によると、旧暦一月一四日の松盛座で当役を決め、二六・二七日から晦日にかけて、今川、祓川(はらいがわ)流域の九里八丁(三六km)の道程を辿たどり、行橋市沓尾浜姥ケ懐での御潮井採りが執り行われていたことが示され、室町時代には重要な神役となっていたとされています。正月晦日に持ち帰った「御潮井」によって山内一円の浄め祓いを行い、二月朔日(ついたち)には松会注連(まつえしめ)おろし、二月五日に舞楽、八日に松会ならし座、十一日から三日間の増慶御供、そして十三日には大講堂庭前に巨大な柱松が立てられ、十四日から二日間盛大な松会祭礼が行われました。
現在も二月十四日に松盛座で当役を決め、二月晦日(みそか)から三月一日にかけて、英彦山神宮の御潮井採り一行が、白装束にわらじ履きといういでたちで、「英彦山神宮潮井採神使」の幟(のぼり)を手に出立します。一行は奉幣殿での祭礼後、英彦山町内への挨拶を済ませ、英彦山津野口へと続く北坂本門口の英彦山秋峰葛城(かつらぎ)修行を守護の七大童子を祀る「坂本神社(七大童子社)」に赴き拝礼を行います。その後一行は「上津野高木神社」、「下津野高木神社」(旧大行事社)に神事参詣し、「赤村地蔵の木」の接待座後、峠道に入り、道中第一の接待座が行われるみやこ町犀川の喜多良「四宮八幡宮(しのみやはちまんぐう)」で祭典が執行されました。この後、行橋市福原で饗応の後、夕暮れに地域の人々の松明(たいまつ)で今井市場まで向い、道中では法螺(ほら)を吹きながら門祓い、屋祓いが行われます。今でも「英彦山やんぶしさん」がいらしたと迎え、無病息災として「貝伏せ」といって法螺吹奏後、人々は頭に法螺貝をかぶせてもらい、お礼に法螺貝に賽銭を入れます。
今井市場(熊野神社御旅所)での接待座後、「今井の宿奥家」へ向かい、二手に分かれて宿入りします。これは古来より英彦山神事が「色衆・刀衆」の陰陽によって執り行われていたことによるもので、二軒の「奥家」が決められています。この際、両家では陰陽合体を意味する「入れ違いの儀」が行われ、しめ縄を張った桶の中にお神酒(みき)一本、潮吹貝二個を奉書に包み箱に入れて取り交わします。宿では英彦山神宮の修祓(しゅばつ)御神号が掲げられた床の間に供物が安置され、神前祓いが行われ、その後英彦山から持参した「音物」(木札、宝印など)が両家に贈られます。深夜、沓尾(くつお)浜まで向かう時、宿人が提灯を掲げ今井大橋まで見送りますが、この後は深秘とされ、何人も見てはならないとされ、「見た者は目がつぶれる」といって、道筋の人家は戸を閉ざし、垣間見ることも許されません。一行は姥ケ懐(うばがふところ)まで行き、海中での禊(みそぎ)を行い二尺ほどの竹筒に潮を汲んで宿へと持ち帰ります。翌朝、今井西公民館で祭典を行い、金屋・春日神社に向かい、接待座後、「潮井玉(しおいだま)」と呼ばれる土産のハマグリ、潮吹貝、ワカメなどを受け取り、往路と経路を変え、みやこ町犀川の「生立八幡宮(おいたつはちまんぐう)」へ立ち寄った後、赤村油須原で接待座後は、再び津野高木神社から「サカ迎え接待」を受け一路英彦山へと帰ります。英彦山神宮に帰着した一行は「潮井玉」と「潮井」を神前に供え神事を終えます。翌日、持ち帰った「潮井」で門前山中の浄め祓いが行われ、門前坊家の人々はお祓いを受け、持ち帰った「潮井玉」を神前にお供えし、三月十五日の「御田祭」、四月の「神幸祭」の準備に取り掛かります。
英彦山御潮井採りは山神である英彦山権現が沓尾浜姥ケ懐で禊払いを行って山と海を融合させました。御潮井道中の村々では法螺の音とともに春田を鋤き「田植え」準備に取り掛かり、今でも豊前「京都平野」の大切な春迎え行事となっています。