「彦山唐ヶ谷(がらがたに)」 十三弦筑紫琴発祥の地

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【関連地域】添田町 赤村

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 銅の鳥居から次手(ついで)の坂の石段を下ると少弐(しょうに)川に着く、この谷川一帯を八龍渓と言います。元禄十(一六九七)年の銘がある石橋を渡ると左手にお地蔵様のお堂があります。昔ここに八龍寺と言うお寺があり、その近くに唐の人で李氏という琴の名手が住んでいました。この噂が都に伝わり、時の帝宇多天皇は命婦石川色子(いしかわいろこ)を彦山に遣わし秘曲を学ばせ、これを帝に奏上させたのが、筑紫琴の始めであると言い伝えられています。そのことから後世この地を「唐ヶ谷」と呼ぶようになりました。

 赤村に琴弾の滝という名所がありますが、この名前の由来は、色子が業を修めて都に上るとき、唐人や多くの僧たちが名残を惜しんでこの地まで送ってきて、この滝の岩上で送別の情を込めて琴を弾じたところ、滝音が琴の音と和して得も言われぬ音色が辺りを包んだと言われ、この名が残ったと伝えられています。

 お地蔵さまから参道を少し下ると、唐ヶ谷の集落があります。以前は八戸ほどあった戸数も過疎化の影響で四戸と減少しましたが、昔から引き継がれている各種のお祭り、「お地蔵様祭り」、「八幡様祭り」、「庚申(こうしん)様祭り」、「祇園様祭り」は今もみんなで守っています。

 里の中を流れる川を「少弐川」と言いますが、永禄の年、龍造寺大宰ノ少弐藤原隆信が彦山宗徒を幕下にするため、攻め上った時の陣地がここで、川で刀を洗ったことからこの名がついたと言われています。

 別所河内林道を少し行ったところに、筒井神社があります。今は英彦山神宮の末社ですが、本社というか本流のお宮は滋賀県東近江市蛭谷町にある筒井神社が彦山筒井神社の本社です。どうして関西にある神社がここにあるのかと不思議に思われると思いますが、その訳は全国に広がりのあった「木地師(きじし)」集団にあります。九世紀文徳天皇の時代、惟仁(これひと)親王(清和天皇)との皇位継承の争いに敗れた惟喬(これたか)親王が大原に隠棲し、従者の北面の武士に「小椋姓」を与え、里人にロクロ挽きの業を伝授したと言われています。この縁起により木地師の祖神として筒井神社にまつられるようになったそうです。木地師達は全国の山に入り椀やお盆を作りながら、氏神の筒井神社をお祀りしていたと思われます。木地師の姓は、小椋、佐藤、筒井と言われていますが、唐ヶ谷筒井神社の裏手の墓には小椋、佐藤氏の墓石があり、倒れた石の鳥居には 願主 小椋新右衛門 の銘が刻まれています。

筒井神社(添田町大字英彦山唐ヶ谷)


 木地師達の痕跡は彦山周辺にはたくさんあります。犀川町の伊良原地区、山国の槻木(つきのき)地区には木地師の墓が多数あります。しかし、時が経つにつれ原木となる橡(とち)の木等の減少と陶磁器の普及による需要の減少により木地師達は彦山を去っていったと思われます。彦山の木地師達が去った後には境内に残る天然記念物の橡の木の大木が、在りし日の木地屋の繁栄を偲んでいるようです。筒井神社から参道に戻り、峠の辻を越えると小倉往還と朝倉街道との追分石(おいわけいし)があります。左の朝倉街道に行くと雲母坂(きららざか)につながる石畳があります。その途中に茶畑跡があります。伊能忠敬の『測量日記』には、「この谷合い茶の名所、茶名を差尾と言う」と記されていますが、今思うと子供のころ大人たちが夜、昼間摘んだお茶の新芽を助炭にかけお茶をもんでいたことが思い出されます。しかし今は茶摘み姿もなく茶畑は原野と化していますが、我々はこれからもこの谷を昔の面影を残す懐かしい里「琴の茶屋」として守っていかなければならないと考えています。

(福嶋繁明)

庚申塔(添田町大字英彦山唐ヶ谷)


八龍地蔵尊の石橋(添田町大字英彦山唐ヶ谷)


トチノキ:福岡県指定天然記念物

(添田町大字英彦山唐ヶ谷)