田川地域は北に最澄渡航祈願の香春岳、南に霊峰英彦山の二大宗教拠点があり、それを繋ぐ天領日田から小倉城下まで「日田道」が縦断し、また古代官道である大宰府-宇佐官道が横断して交差する文化・交易の要衝でした。古代、中世においては大宰府の律令支配の下、豊前国府が置かれ、田川にも郡、その下に四つの郷(雉冶(ちい)、城田(した)、香春(かわら)、位登(いと))六十ヶ村が定められ、更には宇佐弥勒寺、大宰府安楽寺の寄進地荘園、英彦山四方七里神領が複雑に領地を定めていました。英彦山は彦山流記(ひこさんるき)に示された四方七里結界(図)を定めるとともに高(たかみすびのかみ)御産巣日神を祀る山中大行事と英彦山六峰大行事(求菩提(くぼて)山(豊前市)、等覚(とかく)寺(苅田町)、松尾山(上毛町)、福智山(福智町)、桧原山(中津市))、豊前、豊後、筑前に跨る三六ヶ村に大行事社を置きました。現在、そのほとんどは高木神社と名を変えましたが、大任町では大行事という地名が残っています。
近年の発掘調査、文書調査で英彦山を取り巻く中世村落の様子や情勢もわかってきました。
『宇佐大鏡』には川崎町安真木から添田町中元寺一帯は「虫生別符(むしおべっぷ)」が置かれていたとされ、『宇佐大鏡』に「虫生稲光田数六〇丁、同時定卅五丁…虫生別符本者府領也」とあり、大宰府領で、その後宇佐弥勒寺領となったといいます。中元寺観音寺遺跡からは丸鞆(まるとも)石帯や多くの中国龍泉窯陶磁器が出土し、虫生別符などの関連が考えられていて、同じく中元寺川対岸の宮前遺跡からは多くの大型掘立柱建物を持つ奈良~平安時代の官衙的集落跡が発見されました。また、同町桝田(ますだ)遺跡では大量の中国製陶磁器とともに平安時代の舶載玉縁白磁碗を副葬した土壙墓(どこうぼ)などが発見されました。桝田については相良正任の『正任記』には文明一〇(一四七八)年少弐氏を追討した大内政弘が「彦山領、宝珠山八町地(宝珠山東江守跡)・益田八町地(益田丹後入道跡)等を還補せしむ」とあり、大内傘下の益田氏から英彦山領として返還したことがわかります。
その後、大内氏が弱体化し安芸毛利氏や豊後大友氏が豊前への影響を強め、再び数多の攻防が繰り広げられました。
永禄一〇(一五六七)年、安芸毛利氏の後ろ盾を得た秋月種実が筑前休松の戦いで大友氏に勝利すると、周辺の国人領主は大友氏に反旗を翻し、英彦山もこれに呼応すると大友宗麟(そうりん)は子三位公の英彦山座主継席を求めましたが、座主血脈維持を理由に拒否し、舜有を十四代英彦山座主としました。その後、秋月氏と和平密約を結び、舜有の娘を秋月種長に嫁し、その子を座主とすることとしました。憤慨した大友氏は天正九(一五八一)年英彦山へと侵攻し、英彦山勢は山麓「上仏来山城」に陣取り応戦するも諸堂は灰塵に帰しました。また、天正一五(一五八七)年豊臣秀吉九州平定に際し、岩石城(添田町・赤村)の陥落、秋月氏の降伏とともに英彦山神領も没収されました。座主舜有は直ちに肥後南関に秀吉を拝謁し、赦免を請いましたが、かなわず無念の死を遂げました。舜有孫娘の昌千代が女座主となり、窮地を凌ぐも豊前二郡を領した毛利勝信が座主職を請い、英彦山に対し厳しく統治を行いました。この窮状を大谷吉継や黒田官兵衛の叔父である小寺休夢斎を通じ豊臣方に訴え、漸く秀吉死後の慶長五(一六〇〇)年豊臣五奉行(長束正家、増田長盛、前田玄以)が勝信に対し、英彦山への介入を禁じ、五か条の壁書により守護不入などを定めました。戦国末期の戦乱で動揺・荒廃した英彦山は女性座主の昌千代の下で復興を成し遂げ、新しい時代を切り拓きました。そして、小倉入りした細川忠興とともに田川の地にさらに足跡が刻まれていくこととなります。