源為朝(ためとも)は平安時代末期の武将です。身長が七尺(約二一〇cm)もある大男で、生まれつきの乱暴者であったと云われています。このため仁平元(一一五一)年、一三歳の時に父の為義(ためよし)に勘当され、九州に追放されてしまいました。元来、九州は平家との結びつきが強い地域です。九州に来た為朝は豊後国の臼杵あたりに住み、平家一門の娘を娶りますが、その後、自ら鎮西総追補使(そうついぶし)と称して暴れまくり、三年程で九州のほぼ全域を支配下に治めてしまったと云われています。この時期、為義の八男であり鎮西の覇者であるとの自負から、鎮西八朗為朝と名乗るようになったようです。地盤を荒らされた平家側としては面白くありません。このため、為朝に対する包囲網を展開し、徐々に圧力をかけるようになります。為朝はこれに対抗するため、仁平三(一一五三)年に臼杵を離れ、より戦略的価値の高い豊前国勾金の南大原(現在の香春町勾金地区)に移り住み、久寿元(一一五四)年に鎮西原城を築城し、豊前国の支配を盤石なものとしました。なお、鎮西原城の位置については田川市郡内に同名の地域が複数存在し諸説ありますが、勾金地区にある旧田川農林高校跡地が最も有力です。豊前に移り住んだ為朝ですが、その身辺はますます厳しいものになっていきます。さすがに豪胆な為朝も神仏の加護に縋(すが)ろうとしたらしく、源氏の氏神である鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して周辺に八幡宮を建立したり、地域内の神社に請願を立て巡拝した記録が残っています。さて、鶴岡八幡宮建立前の久安年間(一一四五~一一五〇年)、為朝は田原村にある正八幡神社に請願を立て参拝していますが、この時正八幡神社の御神徳に感じ入り、自ら武芸四八手の技を奉納し、武運長久と源氏の興隆を祈ったと伝えられています。この時奉納された神事が「川崎の杖楽」として伝承されている神事で、現在福岡県の無形民俗文化財に指定されています。川崎の杖楽は全国的にも珍しい武芸を模した舞楽であり、太鼓や笛などの鳴り物は使用せず、掛け声と脚踏み等の所作で生じる音だけで武芸を表現しています。特に為朝自身が寄進したと云われる神通鎌は代々大切に伝承されています。
現在は、毎年五月三日から四日にかけて行われる正八幡神社の神幸祭での奉納が中心となっており、白鉢巻きに白襷をかけた勇壮な姿の男子数十人がお庭借り神事の後、神社内の杖楽殿にて演武を披露します。長い間、四八手の技が脈々と受け継がれてきましたが、戦中戦後の混乱により一時途絶えてしまいました。
これを憂いた氏子の人達の努力により、戦後しばらくして復興され、現在は約四〇手の技が復元され、そのうち二二手から二五手の技が神幸祭の際に披露されます。一つの演武は二分から五分程度で、二人から四人ずつのグループが次々に技を演じます。その中でも真刀を使用した演武は大変迫力があり、切られた御幣が舞うと、拍手喝さいが沸き起こります。これらの演武を見ていると、武勇に優れた為朝の息吹を感じることができます。
久寿二(一一五五)年、自らの行いが原因で父為義が解官されたことを受け為朝は京都へ帰参します。このため実際に為朝が田川地区で活動した年数は短いのですが、その影響力は大きく、現在まで為朝伝説としてたくさんの逸話が残されています。