峠と田川の歴史 峠の里のものがたり

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【関連地域】田川市 香春町 添田町 糸田町 川崎町 大任町 赤村 福智町

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 周囲を山々に囲まれた田川盆地は、唯一遠賀川の川筋に開けた道を除いて、他の地方へ行く場合必ず峠越えが必要とされました。

 生活や軍事、さらには地域間の往来や宗教の道など数えていくと限りがありませんが、古代官道に関係深い仲哀(ちゅうあい)峠や石鍋越、さらには大坂越、幕末に小倉藩と長州藩が死闘を繰り広げた金辺(きべ)峠、香春三の岳で採れた銅で鋳造された銅鏡を宇佐神宮に運ぶため通った味見峠などが香春町にはあります。

味見峠(田川郡・京都郡)宇佐神宮へ御神鏡も運んだ峠


仲哀峠(田川郡・京都郡)勝山側七曲り(昭和40年頃) 撮影:鹿毛眞


 田川市には伊能忠敬の『測量日記』にも書かれ、伊田地区と後藤寺地区の境である岩峠、香春町との境を成す糸飛峠などがありますが、やはり田川市で特筆されるのは豊前国と筑前国の国境である境谷の峠ではないでしょうか。ここには見事な行書体で刻まれた国境石があります。これは江戸時代のものか、あるいは明治になってから設置されたものか、議論の分かれるところではありますが、〝国境(くにざかい)〟を今に伝える威厳に満ちた国境石には変わりありません。

 大任町を代表する峠と言えば、赤村と接する地にある立石峠でしょう。この峠、赤村側に降った雨は今川となり、瀬戸内海すなわち太平洋側、大任側は彦山川に流れ込み、日本海側となります。いささか乱暴かもしれませんが、本州の脊梁(せきりょう)を形成している大分水嶺(だいぶんすいれい)の延長線であり、このような見方をすれば、小さな峠もまた違った姿として見えてくるから不思議です。

立石峠(大任町・赤村) 提供:大任町教育委員会


 大任町にはその他、野原越しなど現在ではあまりなじみのない名前の峠もたくさんあります。川崎町へ越える安永峠は、川崎町の人に親しまれよく利用されている峠道です。川崎町から猪膝(いのひざ)方面には猪膝峠があります。さして高く険(けわ)しい峠ではありませんが、車のない時代、重い荷物を持っての峠越しはさぞ難儀だったことが想像されます。

 赤村には石坂峠があります。みやこ町(旧犀川町)との境の峠で今川が深く刻んだ渓谷の地にある峠で、峠の頂上には霊験あらたかな岩嶽(いわたけ)稲荷神社が祀られ、今でも多くの人が参拝に訪れる霊地として有名です。石坂峠手前から山浦神社方面に行く古い道があります。ここは峠道ではないものの、神功皇后伝説の残る古道です。きっと古くから人々の往来があった重要な道だったことでしょう。

石坂峠(田川郡・京都郡)の岩嶽稲荷神社


 福智町方城地区の人が香春方面に行く峠道、あるいは赤池地区から頴田(かいた)へ越える峠などがありますが、遠賀川という大河が流れ、平地が比較的あるため他地区ほど記憶は残されていません。人々の生活道路としての峠道、あるいは英彦山修験道関係の道は各地に伝わっています。

 糸田町では、筑前国との国境の烏尾峠を忘れることはできません。藩制時代、他藩に比べると比較的仲が悪くなかったといわれる小笠原藩と黒田藩ですが、それでも幾度が国境をめぐる小競り合いはあり、戦略上も重要な地でありました。平成二一(二〇〇九)年三月飯塚庄内田川バイパスが暫定二車線で供用され、国境である烏尾峠を貫く一五四四mの〝筑豊烏尾トンネル〟により峠越えの苦労はなくなりました。糸田町と田川市の境の小さな峠は〝北海道〟という地名があり、起源は明治の頃炭鉱に由来するもので興味深く、別項で説明したいと思っています。

 添田町には英彦山があり、峠の宝庫となっています。天領日田との境である岳滅鬼(がくめき)峠、大分との県境である野峠、山伏がほら貝を吹いていたという貝吹峠など数多くの歴史的峠や道があります。

 道路やトンネルの発達で峠の不便さは克服されましたが、歴史が消えていくという一抹のさみしさも同時にあるのが峠と道ではないでしょうか。

(桃坂豊)