仏教では、お釈迦様の教えだけが残り、修行者も悟る人もいなくなる、いわゆる末法の時代が到来するとされています。日本では、一〇五二年から末法の時代になるという思想が広がっていきました。
貴族の摂関政治から院政へと向かう平安時代末期、武士や僧兵が台頭して治安が乱れていきます。こうして、現実社会の情勢と末法の予言が一致したことから、人々の不安はよりいっそう深まりました。そこで、五六億七千万年後に人々を救済する弥勒菩薩が下生するまで、仏法典を保護する経塚が各地に造営されました。
経塚は、写経された経典を経筒に納め、さらに石製または陶製の外容器に経筒を納めて、小石室や土坑内に埋納するものです。末法思想の流布と如法経(法華経)の流行により十一世紀後半から十二世紀頃にかけて全国各地で経塚が造営されますが、中でも北部九州では多くの経塚が造営され、バリエーション豊かな経筒が数多く見つかっています。
田川地域では、特に霊峰・英彦山に経塚が集中しています。南岳・北岳それぞれに経塚群が営まれ、採集された破片などを数えれば、四〇合近くの経筒が確認できるとともに、「伝英彦山出土」と古くに散逸した資料も存在します。また、「彦山流記」には銅板経の埋納も記されており、英彦山が求菩提山に並ぶ経塚の聖地だったことがわかります。
英彦山経塚群からの出土品は、南岳出土の銅製経筒六合、北岳出土の銅製経筒二合と如来立像が国指定重要文化財となっています。うち、北岳の銅製経筒は、類例が少ない三段積上式の筒身で、平面円形を呈する二段の台座裏側には「王七房」の墨書銘があり、中国人の施主が英彦山にいたことがうかがわれます。また、北岳からは、如来立像と銅製蓋も出土していて、蓋の線刻銘文から、両者とも一度掘り起こされて、承正一三年(一五一六)四月八日、つまり、お釈迦様の誕生日に再度埋納されたことがわかります。なお、如来立像は統一新羅時代の仏像と推定されており、異国の古像を埋納する経塚は、大陸との窓口だった北部九州らしい特色です。
ところで、鷹取山山麓の永満寺地区(直方市)でも、昭和(一九三〇)五年に多くの銅製経筒が発見されています。成道寺(田川市)所蔵の銅製経筒は、これら永満寺地区で発見された経筒に形態が類似しています。
成道寺の経筒は、大正元(一九一二)年の彦山川改修工事中に、成道寺南側のひょうたん山から出土しました。山頂より一mほど下がった場所で方形の土坑内に外容器があり、その中に経典(法華経)が納められた経筒が確認されました。経筒は傘蓋の被覆に二輪の相輪と頂部に宝珠を掲げた小さな相輪鈕を有しており、筒身体は一条、筒身中央やや下に一条、高台部より少し上に一条の突帯を巡らせています。高台は二段で、底板に加えて和鏡を加工した蓋を内蓋としています。また、経筒が納められていた外容器は頸部がラッパ状に外反する須恵器の長頸壺で、永満寺経塚にもみられることから、永満寺経塚を造営した人物の関与も想定されます。
一方、田川地域では、通常の銅製経筒ではない経筒も出土しています。香春岳と英彦山を結んだ直線上の丘陵にある古坊遺跡(香春町)では、国道バイパス建設に先立って発掘調査された際に、弥生~古墳時代の墳墓が数多く確認されました。その墳墓群の一画で、十二世紀の経塚が三基確認されました。うち一基は破壊されていましたが、小石室で造営された一号・二号経塚には、それぞれに青白磁壺と陶製褐釉無頸壺が経筒として転用されていました。両者の経筒への転用は、四王寺山経塚(宇美町)などでわずかに見られるのみで、極めて稀な経筒です。経塚の構造と容器の種類を比較すれば、英彦山の影響を受けていないことは明らかです。
この他、興国寺の末寺である東光寺(ともに福智町)境内から出土したと伝えられる銅製経筒は、形態は不詳ですが、経筒の中に納められた経典の保存状態は良好で、判読が可能です。
経塚の埋納品で最も大切なものは、経塚を造営した人々が未来へ伝えようとした仏の教え、すなわち、伝東光寺出土品のような、経筒の中の経典です。現在、私たちが目にすることができる経筒は、開封されてしまったタイムカプセルですが、当時の田川の人々が五六億七千万年後に下生する弥勒菩薩に託した願いは、今でも田川の地に眠っているかもしれません。