大任町今任原(いまとうばる)地区の「今任」という名前については、今から約一一〇〇年前の平安時代の大任町上今任に住んでいたと言われている藤原今任卿(ふじわらいまとうきょう)と繋がりがあるとされています。
上今任にある野原八幡宮境内にある同神社千年祭の碑文に、天慶(九三八~九四七)年間、藤原純友(すみとも)(平安時代の武将)の乱(九三九~九四一年)により西国(中国地方・九州地方)が大いに乱れ、朝廷から追討使として藤原今任卿がこの地に赴いて純友を討ったと記されています。現在は風化して読めませんが、筆者は高校生の頃にこの碑文を読んだ記憶があります。藤原今任卿と建徳寺城についての資料としては、『ふるさと大任(上巻)』・『母なる彦山川』(創英社・水上昭和著絶版)があり、これを手掛かりにして説明します。
享保六(一七二一)年の日付がある、直方市多賀神社の神官であった物部敏文が書いた「今任八幡宮祭記」と今任の庄屋だった渡辺総六が書き記した「今任神社所祭記写本」という記録があり、その中に「一条藤原朝臣今任が、天慶年間藤原純友を討ち、その功によって、豊前国に領地を与えられ、田川郡野原村(今任村は当時野原村)に寺を建て建徳寺と名付けその後、建徳寺城を築いた。」とあります。
城といいますと、現在、多くの観光客が訪れる小倉城や熊本城などの恰好の良い大きな建物のイメージがありますが、平安時代の城は城塁とよばれるもので、地方の豪族が低い山の頂に、簡単な柵や堀を作って居住したものでした。建徳寺城の位置について、『ふるさと大任(上巻)』は、次の三カ所を挙げています。一、現在の「お大師山」の頂上にある平垣地二、野原八幡宮の社殿がある場所三、堂原(道原)地区にある釈迦堂のある場所
左に示す地図の位置関係から、六の場所ではなかったかと思われます。ここには、藤原今任卿の墓と伝えられる大きな岩があり、文字を刻んだ跡が残っています。
また、上今任地区には、建徳寺・米丸・次郎丸・五郎丸・構口(かまいぐち)・城越(じょうのこし)など城郭に関係する地名が多くあり、建徳寺城が実在したことは事実だったのではと考えられます。
藤原今任卿という人物が実在したかどうかについて、明確にできる資料はありませんが、先に述べた「今任神社所祭記写本」に、「参議従三位今任卿は、大織冠鎌足(だいしきかんかまたり)(藤原鎌足)の十代の孫、一条小野宮左大臣実頼公六男也とあり、今任卿の子孫が、ずっとこの神社を治め、その後、二十代の一条土佐守貞政・同馬之助時任(うまのすけときとう)まで米丸山の建徳寺城の主として続いたが、その後勢いが衰え遂に農民になり果てたとあります。
また、『両豊紀』という古い文書には、「惟任(これとう)は今任より一六代の孫なり。」高家と号し当時九州を治めていた太宰大弐や探題(たんだい)の命令にも従わなかったという事です。室町時代になって、中国地方の大内氏が豊前を治めるようになっても「宮家領」と名付けて、藤原今任卿の子孫である惟任には、公納(税)を免除したと記されていて、特別な地位にあったことが分かります。
「高家」とは、有識故実に明るい家柄であり、始祖一条家頼公は、有識故実の小野宮流を始めた人物です。有識故実とは、朝廷や武家の礼式の事です。
建徳寺城の一条家は、永禄年間(一五五八~一五七二)豊後の大友氏に滅ぼされるまで二十代数百年にわたって、大任町上今任地区に住んでいたことになります。
しかし、「今任」の名は、藤原今任卿より前の記録にも見られるように、藤原今任卿や建徳寺城についての疑問点もあり、通説として語られているものである事を理解してください。