十一世紀末、伊勢・伊賀付近を本拠地とした伊勢平氏出身の平正盛は、白河上皇に荘園を寄進し、海賊や反抗する荘官を鎮圧して力を拡大していきます。また、正盛とその子忠盛は西国の受領を歴任し、地方武士勢力を配下に置くことにより軍事力を、宋との密貿易により経済力を蓄えていきます。
保元元(一一五六)年、保元の乱で、後白河天皇側につき勝利した平清盛は、保元三(一一五八)年に大宰大弐(だざいのだいに)に任じられます。大宰大弐着任は、すでに築いている筑前・豊前・肥後をはじめとする地域の政治・軍事基盤のより一層の強化、および宋との貿易の独占を望んでのものでした。平治元(一一五九)年には、宇佐大宮司であった宇佐公通(うさのきんみち)を国司に任じることで、豊前の板井種遠(いたいたねとお)とともに、平氏の有力な味方としたほか、十一世紀初頭から大宰府の上級府官である大監や大典の地位を世襲していた筑前の大蔵氏の嫡流原田氏と藤原氏一族の山鹿氏も支配下に置き、勢力拡大を狙いました。
平清盛が大宰大弐に任命された翌年、平治の乱に勝利した平家一門はその地位を高め、清盛は、永暦元(一一六〇)年、正三位・参議に任命され、公卿の仲間入りをしました。その後、後白河上皇との結びつきを強めて、摂関家とも密接な姻戚関係を持った清盛は、武士として初めて朝廷の最高役職である太政大臣となり、政治の実権を握ることになったのです。
後継者の平重盛をはじめ、一門はみな高位高官に昇進するなか、仁安元(一一六六)年、清盛の異母弟である正四位下平頼盛は大宰大弐に任じられました。頼盛は当時としては異例であった大宰府への赴任を行なっています。(当時、任官されても任地の大宰府へ赴くことが少なかった)この大宰府赴任は、日宋貿易の利権確保が目的であったと考えられます。また、頼盛の大宰府赴任直後、平家支配下にあった宇佐公通が大宰権少弐に任命されたほか、大蔵種成も大宰大監に任命されるなど、在郷有力者を平氏の下に組織化しようとした様子がうかがえます。
このように政治の実権をにぎった平家に対し、後白河法皇とその近臣は反感を持ち、平氏打倒の密議を行います。(鹿ケ谷(ししがたに)の謀議:一一七七年)密議に気づいた清盛は、治承三(一一七九)年、後白河法皇を軟禁・院政を停止したうえ、翌年には高倉天皇を廃し、自分の娘である建礼門院徳子の生んだ皇子を安徳天皇として即位させ、天皇の外戚としていっそうの独裁政権を樹立しました。ところが、以仁王(もちひとおう)が諸国の武士にだした平氏追討命令により、平氏打倒の軍事行動が勃発します。ここから平家滅亡に至る治承・寿永の乱(源平合戦)が始まり、東国では源頼朝が挙兵し、関東での勢力を拡大します。平家側も畿内中心に体制の立て直しを図りますが、治承五(一一八一)年、清盛の死去、畿内・西国の飢饉の深刻化から、寿永二(一一八三)年倶利伽羅峠の戦いにおいて、源氏側の木曽義仲に平家は大敗し、上洛する義仲軍に追われるように安徳天皇を擁して西国へ退くことになりました。九州に入った平家を迎え、味方となったのは、原田種直、宇佐公通、山鹿秀遠らでした。しかし、寿永三(一一八四)年~四(一一八五)年の宇治川の戦い、一の谷の戦い、屋島の戦いと次々と敗退し、最終的に壇の浦の戦いによって、栄華を極めた平家は滅亡することになりました。
【平清盛と築城伝説】
○香春岳城
田川郡香春町にある、香春岳のうち二ノ岳周辺に城郭遺構が残されている香春岳城は、平清盛が大宰大弐として九州へ下向の際、家人の越中次郎兵衛盛次に命じて香春岳山王宮の東に築城し、鬼岳城と名付けた、という伝承が残っています。清盛は大宰府に赴任していないため、伝説の域をでることはありませんが、豊前は平家の知行国であり、有力な基盤となっていたため、このような伝承が残されているのでしょう。現在の香春岳城郭遺構は「タゴ土塁」と呼ばれる一ノ岳に続く鞍部の遺構と、二ノ岳の曲輪や石塁、そして、三ノ岳に続く鞍部に「人枡」と呼ばれる土塁遺構が確認されています。
○弁天城
『田川郡誌』によると、平清盛がその子重衡に命じて福智山麓の上弁城に築かせ、長野新九郎が居城したと伝えられています。その遺構は北部九州の山城では通路が発達し、竪堀と土塁、石塁を自在に使いこなし、虎口を工夫するなど主なものは後世、天正期のものとする説が有力とみられています。
○岩石(がんじゃく)城添田町と赤村の堺にそびえる岩石山の山頂にあった山城で、これも平清盛が大宰大弐として下向した際に築城、家臣の大庭景親(おおばかげちか)を居城させたという伝説が伝わっています。実際には、筑前・豊前の最有力領主秋月氏の熊井越中守が城将として守護していたところ、天正十五(一五八七)年、豊臣秀吉の九州攻めにあい、落城しています。
【日宋貿易と院宣詐称事件】
平家の経済基盤を強固にした日宋貿易ですが、平清盛の父、平忠盛は鳥羽上皇が院政を行っていた長承二(一一三三)年、院宣詐称事件を起こしています。これは、肥前神崎荘(鳥羽上皇の荘園)の預所の忠盛が、荘内に来航した船については府官の臨検を受けるべからずという下文を院宣(上皇の命令書)として出したという詐称事件です。忠盛が日宋貿易の利権に着目し、少なくとも神崎荘内に来航した宋船の利益を独占しようとしたことが想像されます。清盛は、摂津福原にほど近い大輪田泊(おおわだのとまり)(のちの兵庫津)を修築し、瀬戸内海から大輪田泊まで宋船を引き入れるなど、日宋貿易に力を入れ、平家一門に大きな利益をもたらしました。また、古来より海上交通の要所として栄えた博多「袖湊(そでのみなと)」は、清盛が築いたとの伝承がのこっています。