小督(こごう)の局(つぼね)伝説と平家落人(おちうど)伝説 平家の栄華と悲劇を偲ぶ

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【関連地域】田川市 添田町 福智町

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 平清盛(一一一八~一一八一)は、平安時代末期の平家の棟梁です。保元の乱(一一五六)、平治の乱(一一六〇)に勝利し、仁安二(一一六七)年には武士として初めて太政大臣になり、平家一門を次々と高位高官に取り立てていきました。こうして武士政権の祖となる平家政権を築きました。また、清盛は武力ばかりではなく、摂政家と婚姻関係を結び、承安元(一一七一)年には妻の時子の妹である滋子が産んだ高倉天皇へ娘の徳子を嫁がせるなど、朝廷の権威も手中に収めました。治承四(一一八〇)年、徳子は次の天皇となる安徳天皇を出産しています。

 安徳天皇は高倉天皇譲位の後を受け、三歳という年齢で第八一代天皇に即位しましたが、源平争乱のなか平家と運命をともにすることになります。養和元(一一八一)年伊豆で源頼朝が挙兵、そのさなか清盛は病没。京都では後白河法皇を中心とする貴族や南都北嶺の寺院勢力によって打倒平家の活動が激化していきました。寿永三(一一八四)年一の谷の戦い、文治元(一一八五)年屋島の戦いに敗れた平家が最後の拠点にしたのが九州でした。しかし、豊後の緒方惟義(おがたこれよし)や臼杵惟隆(うすきこれたか)、肥後の菊池隆直が源氏についてから九州上陸もかなわず、同年三月二四日壇ノ浦の戦いによって滅亡しました。このとき、安徳天皇は清盛の妻であった二位尼(平時子)に抱かれて海に入水したということです。

 田川地域には平家の落人にまつわる伝説が数多く残っています。弘仁五(八一四)年に最澄(伝教大師)による十八伽藍の一つとして建立されたと伝わる白鳥山成道寺(しらとりさんじょうどうじ)には鎌倉時代から南北朝時代のものとみられる総高三・〇四mの石造七重塔(田川市指定有形文化財)があります。

成道寺石造七重塔「小督局の供養塔」(田川市白鳥町)


 この七重塔は平安時代後期の女官で、その美貌と琴の名手として知られる「小督局(こごうのつぼね)」の供養塔といわれ、かつて九重の塔であったとの伝えもあり、悲しい物語が残っています。

 治承三(一一七九)年四月上旬のこと、小督局は当時の権力者であった平清盛の怒りにふれ剃髪されて京を追放されたため、縁故関係にあった観世音寺(太宰府)の僧を頼って侍女二人を伴って九州へと下り、やっとの思いで香春までたどりつきました。ところが香春を過ぎたころから雨が激しくなって川がみるみる増水し、小督はあぶなく溺れそうになったのです。その時は運よく里の人に助けられて成道寺に連れてこられたのですが、慣れない旅の疲れからか、小督は病に倒れてしまうのです。そして、侍女や寺僧の手厚い看護もむなしく、二五歳という若さでこの世を去ったということです。

 小督の薄幸を哀れに思った郡司(律令制で郡を統治した地方官)が、石工に命じて石塔を建てたのが現在に伝わる成道寺石造七重塔(小督局の供養塔)であるといわれています。重厚かつ均整のとれた優れた石塔で、豊前地方では他に類例をみることができないものです。また、小督局に献身的に尽くした乳母・お糸(田川の人)の墓として伝えられている石造五重塔が下伊田東公民館前にあり、室町時代に建立されたものと考えられています。

石造五重塔「お糸の墓」(田川市伊田)


 また、同じ田川市内には大藪平家屋敷跡があり、福智町にも広谷平家屋敷跡と呼ばれるところが残っています。

 添田町には「お蝶ヶ淵」といわれるところがあります。ここはお蝶というお姫様が乳母と二人で野田の里に隠れて住んでいたものの、源氏からの追討が厳しく生きる望みを失って身を投げたといわれているところです。近くには道の駅「勧遊舎ひこさん」があり、彦山川も護岸工事によって美しく整備され、たくさんの人出で賑わっています。

お蝶ヶ渕之跡石碑(添田町野田)


「お蝶ヶ渕之跡」の碑


 他にも壇ノ浦の戦いで敗れた平家の女官が安徳天皇を奉じて住んだとされる「双戸窟」(上仏来山(かんぷくさん))もあります。奥山という集落では大部分の家が金子姓で、平家が滅んだときに金子十郎家貞という武将を中心にこの地にやってきて土着したと伝えられています。

 田川地域ではありませんが、北九州市小倉南区には源氏から逃れてきた幼い安徳天皇を、村人たちが藁の中に隠して守ったとの伝説が残る「隠蓑(かくれみの)」というところがあります。ここには安徳天皇の御陵といわれる一つがあり、平成十四(二〇〇二)年四月に天皇お手植えと伝えられてきた木斛(もっこく)が八〇〇有余年の樹命を終えたということです。

(森本弘行)