興国寺(こうこくじ)のある地に初めて寺院が建立されたのは、七世紀後半とされます。現在ではこの頃の寺院の存在を確認することはできません。その後、豊後の大友貞宗の庇護を受けた無隠元晦により、嘉暦元(一三二六)年臨済宗天目山宝覚禅寺として開山されます。興国元(暦応三・一三四〇)年には足利尊氏が国家安泰のために建てた安国寺第一位の寺となり、安国福城山泰平興国寳覚禅寺(豊前安国寺)となります。
興国寺はその後室町時代には衰えますが、豊前守護大内義隆の庇護を受けた助翁永扶(じょおうえいふ)により曹洞宗天目山興国寺となりました。南北朝時代の傑作として名高い頂相彫刻(ちんぞうちょうこく)である無隠元晦(むいんげんかい)禅師の座像や興国寺文書、観音堂など数々の寺宝や県指定文化財があります。尊氏にまつわる言い伝えは枚挙にいとまがない興国寺。京都占領をめぐる戦に敗走し、九州へ落ち延びた尊氏の伝説も残されています。尊氏が身をひそめたといわれる「隠れ穴」や、「墨染桜」、尊氏の乗った馬のひづめの痕が残ったとされる「馬蹄石」などが伝えられています。
「墨染の桜」は、九州に落ちのび、ここで再起を図った足利尊氏が、つぼみのついた桜の枝を切り、逆さに地中にさして「今宵一夜に咲かば咲け咲かずば咲くな世も墨染の桜かな」と今後の戦運を占った伝説にまつわる桜です。尊氏がさした桜は一夜にして咲き、その勢いで京に上り室町幕府を開いた…というロマンに満ちたお話です。興国寺に残されている興国寺文書(県指定文化財)には、この桜にまつわる細川幽斎、小笠原忠真(ただざね)の詠歌もあります。歴代藩主が拝した「墨染の桜」は、今は世代交代を経て、若木が植えられています。
興国寺開山と仰がれる無隠元晦禅師は、弘安六(一二八三)年に弓削田(田川市)で生まれたと伝えられています。時は、動乱の絶えない鎌倉時代の末期。仏の道を歩み、博多聖福寺(しょうふくじ)で僧となった元晦禅師は、常に高い志を持っていました。その後、元晦禅帥二七歳のときに豊後の守護・大友貞宗の支援を受け、渡元したとされます。やがて、天目山の名僧・中峰明本(ちゅうほうみんぽん)に師事し、厳しい修行を重ね、頭角を現した元晦禅師は、元の国に名を馳(は)せ、中峰禅師の法を継ぎ、その三哲のひとりに数えられるまでになりました。日本に帰国後は、京都建仁寺、筑前顕孝寺(けんこうじ)、博多聖福寺、京都南禅寺など各地の名刹(めいさつ)に迎えられ、住持(じゅうじ)を歴任しました。特に南禅寺は、官寺の最高位に君臨した寺です。臨済宗の高僧となった禅師は、晩年、故郷の豊前に戻り、現在の福智町上野(あがの)の地で天目寺(のちの興国寺)を開きました。天目とは「いつでも己の行動を天が見ている」という意昧で、禅師が修行した元の国の天目山に由来しています。
興国寺の境内に立つとここだけが南北朝時代の雰囲気を残したまま時を止めているかのようです。福智山の裾野(すその)と調和する姿は、美しさと強さを兼ね備えており、かつては、細く延びた上り坂の参道が、ここに至る唯一の道でした。鐘楼(しょうろう)は見張り台、山門前の石垣が外濠、境内の池は内濠の役目を果たし、三方を山に囲まれ、城郭の配置がなされています。室町幕府初代将軍・足利尊氏と弟の直義は、国家安泰の祈願と戦死者供養のため、全国六六か国に安国寺を設置しました。その多くは交通の要衝地にあり、幕府の前進的な拠点として軍略上の一面も強かったのです。豊前安国寺に指定された興国寺もまた、その面影を色濃く残しています。