征西将軍宮懐良親王、菊池への苦難の旅
後醍醐天皇から征西将軍に任じられた懐良(かねなが)親王(以下宮と略)が、義良(のりなが)、宗良(むねなが)、満良(みつなが)の三皇子と、それぞれに与えられた任地を目指して、伊勢の港を一斉に船出したのが、延元三(建武五、一三三八)年八月十七日のことでした。
九州へ向かう宮は、讃岐(さぬき)に立ち寄った後に、忽那島(くつなじま)(松山市)に到着。忽那氏の庇護のもとにこの地で九州への渡海の機を窺いながら、三ヵ年の滞在を余儀なくされました。
宮が九州の地に第一歩を印したのは薩州津(鹿児島県山川港)で、興国三(康永元、一三四二)年五月一日のことでした。周囲はほぼ北朝方という状況下に、陸路での北上は難しく、この地の谷山城でも五ヵ年の滞留を強いられることとなります。
海路での北上を企図して瀬戸内や熊野の水軍を呼び込んで、宇土津(宇土市)に上陸した後、御船城(御船町)を経由して菊池へ到着したのが、正平三(貞和四、一三四八)年四月のことで、伊勢の港を出発してすでに十年が経過していました。宮はこの年に御成人されたことが古文書で明らかです。
観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)と三勢力鼎立
宮が菊池に入って一年ほどの間に京都の北朝では、足利直義(あしかがただよし)と高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟との間で確執が生じ、兄尊氏(たかうじ)の優柔不断さもあって、遂には直義は政権から追放されてしまいます。もう一人、足利直冬(ただふゆ)という人物がいます。尊氏から子としての認知を拒まれ、直義の養子となっていました。直義追放に伴い、直冬も九州へと逃れ、肥後国の川尻幸俊(かわじりなりとし)を頼ります。これに援助の手を差し伸べたのが少弐頼尚(しょうによりひさ)で、自分の聟として迎え入れています。
京都を脱出した直義は高兄弟を打つべく、諸国から兵を募る挙に出ますが、これに対して北朝の光厳天皇(こうごんてんのう)が、直義追討の院宣を発したことから、直義は南朝に帰順します。
正平六(観応二、一三五一)年二月、直義を攻めた尊氏が逆に敗れ、直義と和睦のために高兄弟を討つ一方で、九州に逃げていた直冬を鎮西探題に補任していますが、翌年二月には直義は尊氏に討たれ、物心両面の支えを失った直冬は長門国に逃れるとともに、南朝へ帰順します。その翌年には尊氏も四ヵ月の短い期間ですが、南朝へ帰順しています。このような一連の騒ぎを北朝の年号をとって観応の擾乱と呼びます。
尊氏が南朝へ帰順していた四ヵ月ほどの間は、北朝の天皇は廃され、年号も正平に統一されます。短期間ではありますが、南朝政権のみとなりましたので、このことを正平の一統と呼びます。
これら北朝方に生じた内紛は、九州の宮方にとっては形勢を大きく利するものでした。そのまま連動して足利尊氏・一色範氏(いっしきのりうじ)、足利直義・同直冬・少弐頼尚(しょうによりひさ)、それに対する宮方という三勢力鼎立の状況が生じたのです。
宮方はこの状況に巧みにに乗じながら、九州統一への策を練り続けたことは、言うまでもありません。
針摺原(はりすりばる)の戦いから大保原(おおほばる)の戦いへ
正平八(文和二、一三五三)年二月一色直氏(いっしきなおうじ)の軍勢が、少弐頼尚の拠点である古浦城(太宰府市)を攻めます。頼尚は菊池武光に援兵を要請し、武光は応えて三千騎を率いて馳せ参じ、針摺原(筑紫野市)で一色勢と戦って破り、頼尚の窮地を救います。頼尚は大いに感激し、「七代にわたって菊池氏に弓を引かず」との、熊野牛王(くまのごおう)の起請文を出した(『太平記』)というほどです。この事件などは三勢力鼎立がもたらした、顕著な事例と言えるでしょう。
それからわずか六年後のこと。菊池軍を主力とする宮方は、高崎(たかさき)城(大分市)に拠って兵を挙げた大友氏時(おおともうじとき)を包囲していました。ところが、氏時の呼びかけに応じて、阿蘇惟村(あそこれむら)と味方であるはずの少弐頼尚が、宮方勢を挟撃して退路を断とうと挙兵したのです。宮方は情勢の激変に驚き、急遽包囲網を解き、血路を開いて本国菊池へと戻らざるを得ませんでした。このことから宮方の中に、少弐討つべしとの気運が一気に高まったのはいうまでもありません。
時に正平十四(延文四、一三五九)年、宮方と少弐頼尚を大将とする武家方とが、筑後川をはさんで対峙します。大保原(おおほばる)(小郡市)が戦いの主戦場となったことで、大保原の戦いと呼びます。敵味方の兵力数など異説も多く、確たる史料はありませんが、戦いの日時については、八月六日夜、丑の尅(午前二時)より同七日巳の尅(午前十時)に至り、というのが正確です。
大激戦であったことは間違いなく、宮も身に三創を負った(『太平記』)というほどです。八時間に及ぶ激戦の末に、頼尚勢は敗走しますが、宮方の損傷も大きく、それを追撃する余力は残っていなかったのが実情でしょう。
征西府(せいせいふ)の樹立
宮方は武家方の残存勢力を掃討の後、正平十六(康安元、一三六一)年八月ごろには大宰府に入り、征西府を樹立しました。父帝の宿願であった南朝政権の樹立を、九州に限ってとはいえ数ある皇子の中で、それを成し得たのは懐良親王ただ一人です。征西府はその後十二年間、日本国の窓口として存続し、対外的な折衝をも担っていくこととなります。