征西将軍懐良親王と菊池氏による九州制圧Ⅱ 南朝勢力、いまだ衰えず(二)

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【関連地域】田川市 赤村 福智町

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宮方による豊前地域の平定

 正平七(文和元、一三五二)年十二月、足利直冬(あしかがただふゆ)が南朝へ帰順しこれに与した少弐頼尚(しょうによりひさ)は、田川郡赤荘を筑前国一ノ宮の住吉神社に与えています。この動きに武家方は、頼尚の弟資経(すけつね)を豊前国守護に任じています。同九(文和三、一三五四)年十月、菊池勢が、千手城(嘉麻市)に一色範光(いっしきのりみつ)を攻めます。攻め手の中には草野永幸(くさのながゆき)や木屋行実(きやゆきざね)等の名もあり、千手城を落とした後には豊前国に入って、弓削田(田川市)にも滞在しています。

木屋行実軍忠状 正平9年(木屋家文書)

千手城を攻めた際に、行実も菊池武光の手に属して戦ったとある。この軍忠状には武光が「一見を加えおわんぬ」と認め、花押を添えている。(懐良親王顕彰会提供)


 同十(文和四、一三五五)年十月、懐良親王(かねながしんのう)(以下宮と略)は軍勢を率いて、日田から玖珠を経て豊後国に入り大友氏泰(おおともうじやす)を降した後、豊前国宇佐・中津に入り、城井の宇都宮守綱(うつのみやもりつな)を勢力下に置き、更に筑前国に入り殖木・長者原・博多へと転戦しています。翌十一(延文元、一三五六)年九月には、菊池氏を主力とする宮方が規矩(企救)郡に攻め入って、北部九州をほぼ席巻するところとなりました。

 話を一年前の十一月に戻すと、菊池武光(きくちたけみつ)が日向国に発向するのを見て大友氏時(おおともうじとき)が高崎城(大分市)に挙兵します。同十四(延文四、一三五九)年三月になると、宮自ら軍勢を率いて発向し高崎城を包囲します。ところが氏時に呼応して、味方であるはずの少弐頼尚が挙兵するなど事態の急変の受け、急遽包囲網を解き小国路に血路を開いて、菊池本国へと戻っていきます。

 同年八月六日夜に史上に有名な大保原(おおほばる)の戦いを迎えますが、宮はかれこれ一年半前に、宇佐八幡宮に御剣を奉納しています。来るべき戦いに勝利すべく、神慮に懸けたものと窺われるもので、銘には「為将軍宮御代官□□、奉施入 八幡宇佐宮 権小僧都信聰 正平十三年祀戊戌二月日」とあります。

白鞘入剣(国指定重要文化財、宇佐神宮所蔵)

この剣には施入人として権少僧都信總の名が刻まれますが、天拝山(筑紫野市)麓の古塔(正平二十年)にも同じ名がみえ、こちらは肩書が権大僧都とあります。親王に近侍した人物でしょうが、青柳種信は「筑前國続風土記拾遺」の中で、太宰府天満宮小鳥居氏の族弟としています。


 大保原の戦いに勝利した宮は、二年後の同十六(康安元、一三六一)年八月ごろには、大宰府に征西府を樹立しました。

今川貞世が九州探題として着任

 このように九州だけが宮方優勢に事態が進展するのを、北朝としては決して容認できるものではありません。九州探題であった一色氏の後には足利直冬が補任され、その後は斯波氏経(しばうじつね)や渋川義行(しぶかわよしゆき)などが探題として任命されますが、さしたる功を上げ得ず、事態の転換ができません。その間にも宮は京都へ戻る準備を着々と進め、後継者として後村上天皇第六皇子の良成(よしなり)親王を迎え入れます。

 正平二十二(貞治六、一三六七)年七月、「豊前国香春城(香春町)不慮之子細」という記述が、古文書に出てきます。この城をめぐる攻防があったのでしょうが、具体的には何がどうだったのかは不祥です。

 正平二十三(応安元、一三六八)年四月に宮は、豊後国鶴崎から船団を組んで東上の途に就くものの、大内(おおうち)氏の軍船に阻まれて失敗し、宮は二度と京都の土を踏むことはなくなりました。

 宇佐神宮にほど近く、真言宗の大楽寺という古刹があり、宇佐宮とは極めて関係が深い寺院です。ここに弘法大師筆と伝わる般若心経があって、懐良親王が、跋文を記しています。正平二十四(一三六九)年の年号がみられます。また六郷満山の古刹である富貴寺は、正平八(文和二、一三五三)年に修造されていますが、旧棟木には大檀那調宿禰行実の名が残っています。

 北朝の切り札として登場した人物が今川貞世(いまがわさだよ)(了俊)です。建徳二(応安四、一三七一)年七月二日、子息義範が豊後国に入り、高崎城に入っています。続いて十一月には弟の仲秋(なかあき)が、肥前国松浦から九州に入ってきました。同十二月十九日には貞世本人が、豊前国門司に上陸しています。貞世の軍勢は多良倉(皿倉山)・鷹見の両城を攻め落とし、小倉・宗像・高宮などを経由して、義範・仲秋勢と合流して大宰府へと迫ります。

 これに対抗して菊池武光も、宮方勢の強化を図り、今川勢の豊前・筑前における連絡網をおびやかしたのです。

征西府の陥落

 文中元(応安五、一三七二)年八月十二日、遂に大宰府の征西府は陥落し、宮方は高良山(久留米市)までの撤退を余儀なくされます。ここに正平十六年以来十二年間存続し、対外折衝の窓口となり、隣国の明(みん)からも日本国王の政権と認知された征西府は崩壊します。

 文中二(応安六、一三七三)年、九州探題として宮にとって代わった今川貞世は、豊前国を分国として弟の氏兼(うじかね)を守護に任じています。翌三(応安七、一三七四)年には、それまで宮方に属してきた宇都宮守綱が、城井高畑城(築上町)に挙兵し九ヵ月近く戦って後に、武家方に降っています。

 豊前地域は豊後国大友氏の勢力が強く、宇都宮氏が拠点としたところで、宮方・武家方双方にとって戦略的に重要であったことはいうまでもありません。

伝承の一例としての尊良(たかなが)親王築城説

 豊前地域の山城には、南朝方の人物によって築かれたという伝承が少なくありません。

 例えば、草場城(福智町)・日王城(福智町・飯塚市)・高尾山城(福智町)には、「興国年中(一三四〇~四五)、尊良親王この地に城を築かせ」と伝承されています。

 尊良親王は後醍醐天皇第一皇子で、元弘の乱(元弘元、一三三一)で土佐国に配流となるも、翌々年五月博多に鎮西探題北条英時(ほうじょうひでとき)を攻めた際には大宰府原山(はらやま)にいて、攻撃の指揮を執ったことは確かです。探題滅亡後は京都に戻り、諸所で戦った後の延元二(建武四、一三三七)年三月六日、越前国金崎城で自刃していますので興国年中築城説は成り立ちません。今後はこのような課題についての検証も必要となるのではないでしょうか。

(佐々木四十臣)