大友氏・大内氏のせめぎあい
蒙古襲来から南北朝の動乱期にかけて惣領制(そうりょうせい)(註)はくずれていきます。北九州西部の雄、麻生氏も庶子が分立弱体化し、周防の大内氏の豊前進出を招きました。当時の有力守護大名は大内氏・大友氏・少弐(しょうに)氏・島津氏ですが、彼らは軍事力で領国化をめざしました。一方、今川了俊(いまがわりょうしゅん)は彼らを統制する九州探題ですが、立場を越えて在地領国化を進めました。応永二(一三九五)年、室町幕府は了俊の領国化を容認せず、更迭します。
註:惣領制…長子等武士の族的結合の長による相続
後任の渋川満頼(しぶかわみつより)は、領国化への姿勢は弱く大友氏や少弐(しょうに)氏に乗ぜられ、菊池氏の反幕府活動に苦慮します。渋川満頼は大内氏の助力を頼み大友氏・少弐(しょうに)氏・菊池氏を押さえようとします。しかし、応永六(一三九九)年に大内義弘(よしひろ)は応永の乱で敗死すると、後継ぎ争いが弘茂、盛見(もりあきら)兄弟でおき、幕府は弘茂を後押するも、勝利した盛見を認めることになり、周防・長門・豊前の他、幕府直轄国の筑前国を預け、渋川満頼を補佐させました。
探題方(渋川・大内)と反探題方(少しょうに弐・菊池)の間で、応永十二(一四〇五)年は豊前猪嶽合戦が起き、その中で千手氏の守る香春岳城は落城しました。盛見は鏡山に陣をはりました。
永享三(一四三一)年に大内盛見は大友持直(もちなお)、少弐満貞(しょうにみつさだ)、菊池兼朝(かねとも)等と交戦中糸島郡萩原で戦死し、再び家督争いが持世(もちよ)、持盛(もちもり)兄弟でおき、豊前で活動する持盛を大友持直が助け企救郡まで進出しました。持盛は長府に入りますが、永享五(一四三三)年に戦死すると、大内持世は大友持直を攻め豊後まで達し、永享九(一四三七)年北部九州を制圧しました。しかし、足利義教(よしのり)暗殺現場に持世が遭遇し死去すると、跡目を継いだ大内教弘(のりひろ)がその機に挙兵した少弐(しょうに)氏を破り、周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見・肥前の大内氏による領国支配が強化されました。
大内氏が主導した日明貿易
中世の筑前・豊前は芦屋釜の鋳造など金属精錬・鋳造が盛んでした。応永八(一四〇一)年に始まる日明貿易の拠点である博多でも海外交易と商工業発展による町衆が形成され、その経済力は祇園祭を勧請・興隆させた大きな力となりました。
応永二八(一四二一)年鋳造の英彦山霊山寺梵鐘銘(行橋市今井浄喜寺所蔵)には「鋳物師大工豊前国今居住左衛門尉藤原安氏作」とあります。さらに永享一二(一四四〇)年鋳造の宗像郡津屋崎町縫殿宮梵鐘銘には「豊前州今井庄東金屋大工藤原吉安」とあることから、今井津(行橋市)に金屋鋳物師など今井町衆が形成されたことがわかります。鋳物師集団の活躍や日明貿易の輸出品として銅が注目されると香春岳銅生産は興隆していきます。
応仁元(一四六七)年、京に於いて足利将軍家や管領家斯波氏と畠山氏では惣領職をめぐる争いが管領細川勝元と実力者山名宗全の争いとなって全国を巻き込んだ応仁の乱となります。大内政弘(まさひろ)は東軍細川勝元とは日明貿易での対立関係にあったため西軍山名氏側として京で戦っています。
政弘の留守に乗じて東軍では大友親繁(ちかしげ)、少弐(しょうに)頼忠が豊前国内の攪乱をはかっていきました。応仁の乱が収束した翌年、文明十(一四七八)年に大内氏は筑前の少しょうに弐氏を敗退させ周防・長門・豊前・筑前守となりました。京からもどった大内政弘は分断された領国の再建を図っていきます。
香春三ノ岳宗丹間歩(そうたんまぶ)の開発
一方、石見銀山(島根県太田市)を大内義興(よしおき)の保護下、大永七(一五二七)当時日本最大の貿易港博多の豪商神屋寿禎が発見すると、天文二(一五三三)年に博多から技術者宗丹・慶寿を赴かせ灰吹法で石見銀山の収量を飛躍的に向上させました。この技術者宗丹あるいは博多商人神屋宗湛(かみやそうたん)によって、香春岳採銅所の宗丹鉱山が開発されたと伝わっています。
北九州を領国に組み込んだ大内氏のねらいは明(みん)や朝鮮との貿易利潤です。倭寇の海賊行為に対し勘合貿易をすすめ、明には刀剣、硫黄、蘇木、銅、扇、蒔絵などが輸出され、銅銭、生糸、絹類、薬草、陶磁器、書籍、書画が輸入されています。日明貿易には幕府のほか大内氏・細川氏・大伴氏・島津氏なども参加していましたが、義興の時代には対明貿易を大内氏が独占していきました。