「雪舟(せっしゅう)」は応永二七(一四二〇)年に現在の岡山県総社市に生まれ、永正三年(一五〇六)年に山口県で亡くなったと云われています。昭和三一(一九五六)年、ユネスコの世界平和評議会で世界の十大巨匠の一人に選ばれた画僧です。十一歳で京都の禅宗相国寺の春林(しゅんりん)和尚に弟子入りし、「等楊(とうよう)」の名をもらい、将軍の御用絵師である如拙(にょせつ)に絵を学びました。
悪戯をし柱に縛られた際、涙で鼠の絵を描いた逸話は大変有名です。将来を有望されていましたが、当時の京都の下克上の世相に失望し、享徳三(一四五四)年頃、現在の大分県に移り住んだと云われています。この頃の活動を通じて「雪舟」の号を名乗り始めたといわれています。応仁元(一四六七)年に遣明船で明に渡りますが、この留学中に仏教の真髄と共に、水墨画や造園の知識を高めたといわれています。
応仁三(一四六九)年に帰国しますが、応仁の乱で京都に帰ることができず、留学前に身を寄せていた大分県の大友氏を頼ることにしたようで、その途中に篠栗を経て彦山を訪れたようです。田川地区に何時、どれ位滞在したか正確な記録はありませんが、六年程滞在したようで、この間に彦山を拠点として周辺に庭園を築庭したとの伝承が残っています。
川崎町の安真木地区にある藤江氏魚楽園は、雪舟が築庭したとの伝承がある庭園で、昭和五三(一九七八)年に国の名勝に指定されました。庭園は道教の神仙蓬莱思想と仏教に基づく宇宙観を表しているといわれ、土塀の内側を彼岸(ひがん)(仏の世界)に見立て、曼荼羅図のように配された庭園内の石一つ一つが仏を表しています。
庭園は中央に「心」の字を模した池を配し、主家東の斜面を築山(つきやま)に見立てた池泉観賞式(ちせんかんしょうしき)庭園です。その築山の北と南に二つの滝石組(たきいしぐみ)を設け、北側の一瀧(いちのたき)上部に本尊石が配されています。池泉は本尊石を含め鶴を表しており、池の中央にある島が亀を模した蓬莱島と云われています。池泉の水は上流の沈砂池を経て水路で導かれますが、急流による石組の崩落を防ぐため、流速を弱めたり余水を途中で分岐する水路に流下させる為の工夫が見られます。
本庭園は、小倉藩小笠原氏の勧遊地として江戸時代の古文書にも登場します。今は見ることができませんが、駐車場から通じる通路の右側に「殿さま道」と称される特別な通路があり、これが御成門に通じていたそうです。
江戸時代後期には、現在の行橋市上稗田で私塾水哉園を開いていた漢学者である村上佛山(一八一〇~一八七九)が本庭園を訪れています。この際、当時の当主からこの庭園に相応しい名前を付けてほしいと懇願され、詩経の大雅篇中の「魚楽しければ、人また楽し。人楽しければ、魚又楽し」の言葉を引用し、「魚楽園」と命名したことが『魚楽園記』に記されています。そこには、平和への願いが込められていると伝えられています。
庭園内にはたくさんのモミジが生えるとともに、ツツジが植栽されています。春の新緑や秋の紅葉、雪の降る冬など、四季折々で変化する庭園の景色は大変美しく、見る人の心を浄化するだけでなく、禅宗の僧であった雪舟の仏教観を如実に感じることができる名庭園です。また、幻想的な姿を見せる夜間のライトアップも人気が高く、多くの人に楽しまれています。
川崎町は、この雪舟をテーマにした観光や町づくりにも尽力しており、特に隔年で開催される「雪舟ゆかりの川崎町日中交流水墨画公募展」は全国各地から様々な水墨画が公募され、全国的に認知されたイベントとなっています。