大内氏が豊前に進出したのは南北朝前半、大内弘世(ひろよ)の頃で、南朝の宮方について門司の猿喰城など企救郡から菊池勢を追い落とし、これが豊前進出の第一歩となりました。南北朝後半、大内義弘(よしひろ)の頃には周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の六か国の守護となりました。豊前国では南北朝以降も混乱が続き九州探題今川了俊の後任者渋川満頼は自立化をめざす大友氏・少弐(しょうに)氏・菊池氏を押さえるため、大内氏の助力を求めました。それにより勢力を拡大した大内と室町幕府は対立し、応永の乱となり、応永六(一三九九)年義弘が堺で敗死します。
一方、倭寇に対処した幕府は、応永八(一四〇一)に日明貿易(勘合貿易)を開始します。明(中国)に銅・硫黄・蘇木・刀剣・扇・蒔絵などが輸出され、明からは銅銭・生糸・絹類・薬草・陶磁器・書籍・書画が輸入されています。しだいに大内氏が独占し経済力をつけていきます。大内義弘敗死後の家督争いが兄弟で起きますが、反幕府の大内盛見(もりあきら)が家督を次ぐと九州探題渋川満頼補佐のため室町幕府は盛見の支配を追認せざるをえませんでした。北部九州は大内氏と大友氏が入り乱れ兄弟親子が相争う戦乱期に突入しますが、豊前は次第に大内氏の本領地のような状態になりました。その後、応仁の乱では大内政弘(まさひろ)は西軍の頭目のような活躍をしています。その間、東軍方による攪乱で領内は分断されていきました。応仁の乱が収束した翌年、文明九(一四七七)年に周防・長門・豊前・筑前の守護職を得て帰国すると領国の安定化を図り、天文五(一五三六)年大内義隆(よしたか)が大宰大弐に任ぜられ、少弐(しょうに)氏を各地で敗退させていきました。
天文二〇(一五五一)年、大内義隆が家臣の陶晴賢(すえはるかた)から自害に追い込まれると、晴賢は大友宗麟の弟である大友晴英に大内氏を継がせました。弘治元(一五五五)年には毛利元就が晴賢を厳島で滅ぼし、弘治三(一五五六)年に大内晴英(はるひで)(義長(よしなが))も元就により長府の長福寺で自害させられ、大内氏は滅亡しました。元就と宗麟との大内領分割密約があったため、宗麟は弟への援軍は出していません。
大内氏の旧領を引き継いだ元就は、宗麟との防府、長州・豊前・筑後の不可侵条約の密約を破り、旧大内勢力圏の筑前・豊前へ進行すると宇佐神宮・香春神社も宗麟に叛きました。これに対して、宗麟は宇佐郡を従わせ、永禄元(一五五八)年、筑前・豊前へ侵攻し門司城を攻めます。翌年には幕府へ青銅二万疋(註)を献納し、豊前・筑前・筑後の守護職に補任され肥前・豊後・肥後を併せて六か国の太守となると九州探題に補任されます。永禄三(一五六〇)年には青銅三十万疋(註)の献納により将軍家桐紋の使用を許されたとされます。今井津や香春は交通の要衝で豊筑の国人衆への連絡・調略の拠点であり、銅産出の香春岳は双方にとって重要な要地となっていきました。
註:疋(ひき)…銭貨の数え方(百疋は一貫文)
永禄四(一五六一)年には大友方が宇佐神宮を焼き討ちにしますが門司城や蓑島・今井津の海戦で敗退し、永禄五(一五六二)年には田川の地は大内氏の支配地となりました。宗麟が永禄四(一五六一)年門司城の戦いで元就に敗れた後、元就は幕府の調停により、永禄六(一五六二)年の和睦交渉で背後の尼子氏と争いを考慮し、門司城を確保し香春岳城をあきらめています。この豊芸講和も毛利方に破棄され、田川地方は、いったん毛利方に奪還されるも大友氏の支配下となりました。
この地方は五穀実らず疱瘡疫病が流行し荒廃しました。永禄五(一五六三)年三月二五日に、今井津祇園社(行橋市)から祇園の神を勧請し、悪疫平癒を祈願し御願成就の御礼として山笠をたて神幸祭に奉仕した伊田風治八旛宮の川渡り神幸祭は村復興の象徴でしょう。
永禄十(一五六七)年大友氏の将高橋鑑種(あきたね)が宝満・岩屋両城で反乱を起こすと秋月氏・立花氏らも一斉に蜂起し、毛利氏もこれを支援し小倉城を築城しました。永禄十二(一五六九)年筑前立花城の攻防が始まります。宗麟の多々良川の戦いの勝利と周防への後方攪乱(大内輝弘の乱)により、毛利氏は九州から撤退しました。高橋鑑種(あきたね)も降伏し、小倉城へ入り門司城領の奪取を命じられました。九州は東北部の大友氏、西部の龍造寺氏、南部の島津氏の三者が並び立つ時代を迎えていきました。島津氏の北上後、日向耳川(ひゅうがみみかわ)の戦いで大友氏が敗北し形勢が不利になると、宗麟の要請による豊臣秀吉の九州攻めを招くことになりました。
参考文献(図1)
小川秀樹「中世今井津の形成と発展」
『美夜古文化』美夜古郷土史学校三六号
令和三(二〇二一)年