〝盆ギツネが憑(つ)いた!〟
昔から盆踊りが盛んな香春の地ですが、夜が更けるのも気が付かず、盆踊りに夢中になることを表現した言葉です。若い男女は言うに及ばず老若男女、また子どもたちまでも盆の期間中は少々帰宅が遅くなっても咎められることも少なく、また一つの言い訳として言われていた言葉です。
香春の地に盆踊りが根付き、また盛んに踊られていた背景には戦国の頃、香春岳にあった〝鬼ケ城(おにがじょう)〟の存在、そして香春岳を舞台に戦われてきた数多くの戦乱が関係していた事は無関係ではないでしょう。
現在盛んに口説かれている〝香春盆口説(ぼんくど)き清瀬姫恋物語〟は、残念ながら史実に基づいた物語ではありません。もちろん盆口説きを否定するものではありませんが、間違いや矛盾点の中に新しい発見があるのはとても興味深く、物語としての作者のセンスの良さについつい引き込まれてしまいます。
口説きの中に「豊後竹田(ぶんごたけた)の城主 大友宗麟(おおともそうりん)公」また「竹田城下の秘密を探る」などと現在の竹田市(大分県)が盛んに出てきますが、豊後竹田の代名詞ともなっている岡城は文治元(一一八五)年に緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるために築いたという伝説のあるお城です。そののち応安二(一三六九)年、志賀氏が居城と定め(『豊後国志』)、文禄三(一五九四)年播磨国(はりまこく)三木城より中川秀成が入城して明治七(一八七四)年に廃城となるまで中川氏が代々治めていました。
大友宗麟が岡城の城主であったことは歴史的には間違いだと言えますが、ここに興味深い〝事実〟はあります。盆口説きとともに香春の里に伝わる物語に〝琵琶歌 香春岳合戦記〟というものがあります。これは古くより目の不自由な僧侶である琵琶法師が語る物語で、筑前琵琶として親しまれてきました。この琵琶歌の中では、竹田城主の大友宗麟となっており、盆踊り口説きの作者が古くより伝わる筑前琵琶を意識していたことは容易に想像できます。
香春町鏡山に〝伽藍松(がらんまつ)〟という地があります。ここは寄せ手(大友軍)の陣の跡と言われ、大友軍の総大将はどこからともなく飛来してきた大カラスをみて、部下に弓と矢を持たせ、ひょいと放つと矢は見事に命中し大カラスが地上に落ちたため、部下が急いで駆け寄ると、大カラスの正体は実は黒装束の武士で、香春岳城の忍びでした。なぜ見破ったのか不振に思い訊ねると「真の鳥ならば瞬(まばた)きする際、下の瞼(まぶた)が上に上がるものの、こやつは上の瞼が下がってきたので人間と見破った」と。
この総大将こそ立花家の当主となる戸次(べっき)入道道雪であり、鬼ケ城から忍びを放ったのは同じく剃髪(ていはつ)した赤松厳心入道という軍師で、敵味方とも知略に長(た)けた戦術家であったというまったくよくできた話と言えます。このように香春で育った人たちは先祖より香春岳の話を聞き、恐れおののき、また崇敬の念を込めて踊り、戦いでなくなった敵味方の供養として盆踊りを伝えてきました。
赤松厳心入道は創作と思われますが、戸次道雪は大友宗麟の腹心として数多くの戦いに勝利してきた名将です。のちに大友氏の一族・家臣であった高橋紹運の長男・高橋統虎(むねとら)を養子に迎え、立花誾千代(ぎんちよ)と結婚させると、統虎が立花宗茂と改名し、立花山城督(城主)となり、立花氏はこののち筑後柳川藩を治めていくこととなります。物語のロマンを崩す必要もありませんが、琵琶法師が当時の国主の名前等をなぜ創作したのか、また単なる間違いなのか、さらにどうして岡城なのかなど、興味深いことは次々と出てきます。
香春盆踊りの歴史を、大友宗麟方や道雪、さらには筑後柳川からの視線でもう一度振り返ってみるのも面白いかもしれません。