「太閤秀吉」が通った道
いわゆる「戦国の三傑」、信長・秀吉・家康のなかで、豊臣秀吉はとりわけ九州と縁がふかく、前後三回も九州入りをしています。第一回目が薩摩の島津氏を追った九州平定戦であり、その終結をもって九州の中世は終わりました。
今日、秀吉が軍事行動をした各地には「太閤道」の伝承があり、秀吉が通った、あるいは作った道と伝えています。伝承の背景には秀吉が兵站(=軍事物資の補給)を重視して大がかりな道作りをしたことや、天下統一後を見すえた交通網の整備があります。
小倉から香春までの道
天正十五(一五八七)年三月十八日、豊臣秀吉は赤間ヶ関(下関市)から海峡を渡って小倉城に入り、ただちに豊前岩石城(田川郡添田町)攻略のため南下、翌二十九日には長野氏の居城、豊前馬ヶ岳城(行橋市・京都郡みやこ町)に入りました。(『九州御動座記』)
この間のルートは地形的に東の沿岸部が想定されがちですが、伝承は内陸の秋月街道に残っています。(小倉~香春間は香春街道とも)
小倉から南下して金辺峠―香春―秋月にいたる近世の秋月街道は、慶長十七(一六一二)年に冷水峠経由の長崎街道が開通するまで九州の南北の幹線であり、以後も主要な街道であり続けました。
とりわけ、小倉・田川地方間の道は古く天平十一(七四〇)年の藤原廣嗣(ひろつぐ)の乱のころから通じており、廣嗣軍の一隊は「田河道(たがわのみち)」を通って板櫃川(いたびつがわ)(小倉北区)に向いました。「田河道」は香春町(田川郡)採銅所から北上して金辺峠を通り、企救郡南部に入るルートと推定されるので、律令時代の道が戦国・江戸時代までながく引きつがれていたことになります。
くだって幕末の慶応二(一八六六)年、いわゆる小倉戦争で香春街道を退却する小倉藩兵を追撃した山縣小輔(やまこすけ)(有朋(ありとも))は「その根拠香春を取らんがために(中略)三道より進む。この日、予は太閤道より進軍せり」と記しています。(『懐旧記事』)
山県が進軍した道は小倉南部の篠崎・加用付近であり、地形的に近世香春街道より古いルートです。当時この道すじが「太閤道」の名で呼ばれていたことがわかります。これより南下した高津尾(小倉南区)には秀吉の本陣跡の伝承もあります。(『企救郡誌』)
このように見れば、小倉南部の「太閤道」は天正十五年に秀吉が岩石城に向かった道であり、近世秋月街道以前の、企救郡と田川郡を結ぶ古道だったといえるでしょう。
岩石城(がんじゃくじょう)から益富城へ
四月一日、秀吉は本陣を馬ヶ岳城から柞原山(すはらやま)(田川郡赤村)(註)に進め、秋月氏の支城岩石城(赤村・添田町)に大軍を投入、わずか一日で落城させました。これは九州の緒戦で豊臣軍の威力を示すデモンストレーションでもありました。これを見た益富城(嘉麻市大隈)の秋月種実(あきづきたねざね)は戦意を喪失、みずから城を破壊して本拠地の古処山(こしょざん)城(朝倉市秋月)へ撤退しました。
註:戸城山ともいわれるが諸説あり、名称・場所とも不明
益富城に入った秀吉は大隈の町衆の協力を得てたちまち城を復旧し、秋月氏の肝をつぶしたという、「一夜城」の伝説が生まれます。
話の真偽はおくとして、岩石城から益富城までの経路の一部はのちの秋月街道と重なるようです。
その道すじは大隈町の東、県道三二二号線山田峠を越えて益富城にいたりますが、峠の旧名「かぐめ峠」は秀吉に従った千利休にかかわる「かぐめ石」という大石に由来します。言い伝えは伝説の域を出ませんが、益富城の周辺には、このほかにも「太閤坂」「太閤地蔵」などがあり、秀吉の足跡が今も色濃く残っています。
この先、秋月街道は山ぞいに益富城を迂回して大隈の町に入りますが、江戸時代に道の変更がありました。
その理由として『福岡県地理全誌』には旧道は益富城を見通す高い位置にあったので、これを谷筋に下る道に付けかえた、とあります。戦国時代までの街道は大筋で後世に引きつがれましたが、江戸時代のあらたな体制下では地域の実情にあわせた部分的な修正が各地で行われたのです。