壇ノ浦での平家滅亡後(註)、源頼朝・義経の対立を契機に義経追討のため鎌倉幕府は朝廷から全国規模で地頭職(じとうしき)の任命や管轄する権限を認められました。九州には天野遠景(あまのとおかげ)を大宰府統括として派遣しました。彼は荘園への強権発動により荘園領主に反発され解任されると、武藤資頼(むとうすけより)が鎮西奉行として九州を統括しました。各国守護が整備されると武藤氏(少弐氏)・大友氏・島津氏が九州を三分していきます。
註:平家滅亡…元暦2(1185)年
こうした中、宇都宮・千葉・渋谷・二階堂・相良などの有力御家人が九州に惣そう地頭職(じとうしき)を得ました。惣地頭のもとに組み込まれた地元の小地頭を国御家人、鎌倉御家人を下り衆といいます。
関東(下野国)の有力御家人宇都宮氏の庶流宇都宮信房(うつのみやのぶふさ)は、平氏方として豊前国内に大きな勢力をもっていた在庁官人(国府役人)の板井種遠(いたいたねとお)の所領を継承し、田河郡柿原名(かきばるみょう)、京都郡稗田(ひえだ)荘、仲津郡元永(もとなが)村、仲津郡城井(きい)郷、築城郡伝法寺(でんぽうじ)荘など広範囲におよび、本拠地を築城郡城井におく一族がその嫡流(ちゃくりゅう)として栄えました。南北朝の動乱期には足利尊氏に従い北朝方として豊前国を中心に勢力を広げます。尊氏の子直冬(ただふゆ)が下向するも尊氏と直義兄弟が不仲になると直義の養子となった直冬は佐殿方(すけどのがた)として九州に勢力を広げます。懐良親王(かねながしんのう)と菊池の宮方(南朝方)が九州に勢力を広げ、九州は三分されましたが、宮方が大宰府をおさえ北部九州を勢力下に納めると宇都宮氏は一時南朝方となります。
宇都宮氏は神楽城の戦いで北朝方である九州探題の今川了俊に制圧されると、その後の大内氏・大友氏の豊前国をめぐる争いの中で、大内氏支配下となり、次第に勢力を落としていきます。大友氏が九州探題として北部九州を制圧すると大友氏支配下となりますが、耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗すると、再び豊前国に勢力を拡大しました。大友宗麟(そうりん)は豊臣秀吉に頼み秀吉による九州攻めが始まります。豊前国の多くの国人(小領主)は黒田氏に従いますが、宇都宮鎭房(うつのみやしげふさ)は病気と称し息子朝房(ともふさ)を従軍させ軍功をあげます。九州平定により島津氏が秀吉に従うと、豊前国の多くの領地は黒田氏に与えられ、宇都宮氏は伊予に国替えとなります。秀吉の朱印状を拒んだ鎭房は領地を失ってしまいます。田河郡・企救郡を与えられた毛利勝信(森吉成)は小倉城を居城とし領国経営に当たりましたが、彦山座主に弟を送り込もうとし対立しました。森氏は織田信長に仕えた家で豊前国では毛利の名の方がうまくいくであろうと秀吉によって毛利に改名させられたとの話が伝わっています。その勝信が領地を失くした宇都宮氏を田河郡赤村内田郷・柿原(かきばる)・成光・白土にあずかりました。
特に、柿原は宇都宮氏の旧領地であることや、豊前国と筑前国を「猪膝峠―安永峠―立石峠―石坂峠」でつなぐ交通の要衝であること、豊前国に勢力を持つ宇都宮氏与力の国人たちを毛利氏配下におこうとのもくろみがあったと考えられます。肥後国人一揆の制圧に黒田氏が動いた隙に宇都宮氏は豊前の国人と反乱を起こし、築上町の岩丸山合戦に勝利します。しかし、一旦は黒田氏と和議を結びますが、黒田氏の謀略により、中津城で鎭房は家臣一同誅殺され、肥後国人一揆鎮圧のため黒田孝高(くろだよしたか)に付き従い参戦中の息子朝房も暗殺されてしまいます。こうして、鎌倉時代から弓の礼法を伝えていた宇都宮氏はここに終焉を迎えるのです。今もなお木井馬場や寒田では往時を偲び豊前宇都宮氏のことを大切に語り継いでいます。