毛利勝信と戦国期の田川

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 天正十五(一五八七)年五月、豊臣秀吉は島津義久を降伏させ、九州を平定しました。秀吉は、九州北部を中心に小早川隆景や黒田孝高、佐々成政など有力な豊臣系大名に領地を授け、九州国分けを行いました。この九州国分は九州における戦国時代の終焉を意味し、西国に豊臣政権による中央支配体制が確立しました。これにより、田河郡と規矩(きく)(企救)郡の二郡(六万石)を与えられたのが毛利勝信(森吉成)でした。勝信は秀吉に仕えた古参の家臣で、黄母衣衆の一人とされますが、田河郡と規矩(企救)郡を治めた期間が十三年であることから、地元でも知名度が低くあまり知られていないのは残念です。

 勝信は小倉城(現在の小倉城中心部)を居城に定め、岩石城(添田町)、香春岳城(香春町)に家臣団を配置しました。居城である小倉城には秀吉が許可した大名のみに許される金箔瓦が使用されており、豊臣政権との強い繋がりや九州の出入り口という位置の重要性がうかがい知ることができます。

小倉城 細川氏時代の復興天守


 勝信の統治は、秀吉の九州平定から関ヶ原の戦いまでの短い期間だったことや二度の朝鮮出兵などにより領地を離れることが多く、不明な点が多数ありますが、彦山に関する資料は比較的豊富に残っています。

 添田町に所在する彦山は、多くの人々の崇敬を集めた霊山であり、その信仰圏・影響力は九州一円に及ぶものでしたが、戦国時代末期には戦乱により荒廃していました。中世の彦山は守護や国人領主などにより崇敬を受け、多くの寺領や裁判権などの守護不入の権利を有していましたが、勝信はそれを認めようとしませんでした。天正十五年の小倉入府から、勝信は中世以来の特有の権利を有する彦山への影響力を高めるため様々な画策をしました。入府当初、彦山座主職が空位になっていたため、毛利一族の者を座主に就けようとしましたが、後伏見天皇の皇子である助有法親王から世襲されてきた座主職を彦山側は譲るわけもなく、前座主の娘である昌千代(まさちよ)を「女座主」に据え勝信に対抗しました。その後も、毛利氏と彦山の対立は続き、慶長四(一五九九)年三月には、銃を持たせた兵を彦山の寺領に送り込むなど、勝信は彦山に対し厳しい支配を行いました。彦山側も大谷吉継や小寺休夢などを通じて、豊臣政権の執行部にその窮状を訴え続け、関ヶ原の戦いの約半年前の慶長五(一六〇〇)年三月に豊臣五奉行の増田長盛、長束正家、前田玄以により所領が安堵されました。これにより、勝信は彦山への介入が禁じられ、彦山は地位を安堵されたのです。

 勝信は関ヶ原の戦いでは西軍につき、息子である勝永が伏見城を攻め、勝信が守る小倉城は黒田孝高に奪われ、戦後に改易の憂き目に遭います。その後、勝信は身柄を加藤清正や山内一豊に預けられ、特に親交のあった山内家では手厚く迎えられ、慶長十六(一六〇一)年五月に土佐の地において亡くなりました。

 勝信が統治した時代は中世から近世の変革期であり各地で寺社への弾圧が行われ、特に九州を代表する寺社勢力(武力集団)であった彦山との対立は必然的であったといえます。彦山との十年以上続いた対立の証人として、英彦山神宮境内の鐘楼には勝信の弟である吉勝が寄進した梵鐘が架かっています。

(坪根法広)

毛利吉勝寄進の梵鐘(添田町大字英彦山)

年号:文禄3(1594)年


高橋・毛利氏時代の小倉城の推定範囲

国土地理院地図1/25000を加工して作図