英彦山の東麓のシャクナゲが咲き誇る犬ヶ岳眼下に槻木(つきのき)に毛谷村(けやむら)の集落が佇(たたず)んでいます。往時は五〇軒余り軒を連ねていたというこの毛谷集落もわずか数軒となっていますが、現在もずっと続いている物語があります。それは毛谷村(けやむら)六助(ろくすけ)の物語で、江戸時代から現在まで常時上演される歌舞伎演目「彦山権現誓助剣(ひこさんごんげんちかいのすけだち)」の主人公「毛谷村六助」の故郷として知られています。
六助伝説は英彦山にはたくさんあり、怪童として知られ、「馬の四つ足を掴(つか)んで持ち上げたとか、家計の助として小倉まで薪売りに行く途中、つまずいて日岳(ひだけ)という山に薪が引っ掛かり、それ以来日岳は東に傾いた。」などの話が残されています。また、青年時代の六助は豊前坊天狗に指南して剣術の稽古に明け暮れ、「古今無双」と言われるほどとなっていたといいます。そのような六助を題材にした作品が「彦山権現誓助剣」です。父吉岡一味斎と妹お菊を討たれた、お園が英彦山の麓毛谷村に訪れ、六助の後ろ盾で仇討ちを果たす筋立てとなっています。初演は天明六(一七八六)年、大阪東芝居で梅野下風・近松保蔵合作による全十一段の人形浄瑠璃として上演されました。歌舞伎としては寛政二(一七九〇)年に大阪中芝居で上演され、江戸では同八年に三座で行われて好評を得て、現代まで続く歌舞伎時代物演目の傑作として上演されています。特に九段目の「毛谷村」が定着し、毛谷村の住家で六助が仇、微塵弾正(みじんだんじょう)と出会う場面やお園が女武芸者として虚無僧(こむそう)姿で現れ、許嫁(いいなずけ)であることなどを明かす場面など小倉領内に仇討ちに向かう導入としての展開が面白く好評を得たものです。また、享和三(一八〇三)年には速水春暁斎(はやみしゅんぎょうさい)が『絵本彦山権現霊験記』十巻を刊行し、人気浮世絵師歌川国芳も河童と相撲を取る六助を描くなど豪傑な人物として広く庶民に親しまれました。
お園、お菊姉妹の説話もあり、小倉から毛谷村に向かう道中、提灯を枝に掛けて休んだという「お園提灯掛けの松」があったとされる香春町湯山原では松は枯死してしまいましたが光願寺の境内に地元有志が大正十二(一九二三)年に建立した碑が立っています。添田町上津野ズイべガ原には松の根元にお菊の亡骸を葬ったという「お菊の松」がありましたが枯死してしまい、近年供養の堂が建てられています。
さて、この物語後の六助はというと、お園と平穏に暮らしたというわけではなく、多難な人生を送ったようで、加藤清正に仕えて「木(貴)田孫兵衛」と名乗り、豊臣秀吉の朝鮮出兵にも従軍したと伝えられています。そして文禄二(一五九三)南江ほとりの晋州城での攻防の折、「義妓」として当地に祀られる「朱論介(ジュノンゲ)」と共に南江に没したと言われています。毛谷村六助のもののふぶりを知る手掛かりとして、非常に大きな火縄銃が「毛谷村六助の鉄砲」として英彦山修験道館に展示されています。この鉄砲は慶長大火縄銃と呼ばれる鉄砲で全長八尺(二四五cm)にも及ぶもので、文禄・慶長の役や大坂夏の陣、関ヶ原合戦に用いられたものと同類のもので、文禄・慶長の役で活躍したと伝えられる六助の鉄砲にふさわしいものです。
毛谷村の当地にも六助の人物像を伝える享保元(一七一六)年の「毛谷村六助略縁起」が残っており、これによると文禄四(一五九五)年二七歳で朝鮮出兵に従軍し、凱旋して六二歳で逝去したとあります。また、明治十三(一八八〇)年五月耶馬渓厳浄寺住職村上良秋が木田孫兵衛二八三回忌に納めた肖像画があり、当番の家に掛け月参りが行われ、同じく同年四月に槻木の有志が建立した「木田孫兵衛」の墓があり、今も献花が絶えず、歌舞伎役者も「彦山権現誓助剣」の公演前にお参りをしています。英彦山の山間に行くと、今も英雄「毛谷村六助」が木を打つ音が聞こえてくるようです。