近世の田川(概説)

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近世の田川

 中世、豊前は大友氏や大内氏の二大勢力に挟まれ、翻弄されてきました。しかし、関門海峡は海上交通、小倉・香春は陸上交通の要衝です。田川地方は産銅と穀倉で重要拠点でした。戦国時代中期には島津と高橋氏など多くが通じ、大友氏と対峙したため大友宗麟は劣勢に立たされました。これにより豊臣秀吉に救援を要請し九州平定が起きます。

 企救・田川を領有した毛利勝信は関ヶ原の戦いの結果改易されると、細川忠興(ただおき)が豊前国と豊後二郡を領有し小倉城の普請(ふしん)を始め、城下に商人職人を集めます。中世以来諸国に名をはせた小倉鋳物師(いもじ)たちの町をつくり、茶碗・皿(上野)などの陶器を焼かせました。農村には手永制度(てながせいど)を導入し、呼野・採銅所の金山開発など様々な政策を進めました。

 細川氏は慶長五(一六〇〇)年に入国すると翌年には検地を終え、十万石を蔵入地(くらいりち)とし、残りを家臣の知行地(ちぎょうち)としました。分村化によって新たな村々には庄屋、方頭(ほうがしら)などの村役を置き、二十内外の村に対して大庄屋をおき、村方役人として藩より扶持(ふち)がだされた領主の家来でもありました。これらの農村支配の村編成は二十年で完成されました。

 この頃になると中世の開発領主たちが経済の利便性を求めて集住化し、新町・猪膝町(田川市)、弁城新町(福智町)、香春町(香春町)、彦山町・添田町(添田町)などの「町」が形成されていきました。

 肥後国の加藤氏が寛永九(一六三二)年に改易、細川氏が転封となり、播磨国から小笠原氏が入国し、豊前国企救・田川・京都・仲津・築城の五郡と上毛郡の内を領有しました。十五万石譜代大名小笠原忠真は小笠原諸家(中津、杵築、宇佐郡龍王)の惣領(そうりょう)として九州探題的任を果たす特命を徳川家光から受けると検地は行わず、細川氏の農村支配体制や人的資源もそのまま受け継ぎました。宮本武蔵の養子伊織(いおり)は家老となり、田川地方を知行地として経営し伊織堰(いおりぜき)などが残っています。

 寛永十二(一六三五)年若松が参勤交代の乗船地になると、米の積出港として栄え黒崎に船庄屋がおかれました。小倉藩でも水運の制度は整備されていきます。延宝期(一六七二~八一年)になると蔵米支給が実施され、知行地に対する土地支配権や年貢徴収権がなくなり封建体制は変質します。小倉藩政は発展し、財政優位の藩官僚体制が確立しました。しかし、増加してきた中国密貿易船の警備取り締まりは小倉が統括し長州・筑前の三藩共同警備となり、財政的に圧迫されました。

 農村支配と年貢徴収の強化で農民は次第に疲弊し、宝永期の東海・東南海・南海大地震被害と富士山噴火での献上金、さらに享保大飢饉は多くの餓死者を出し農村は荒廃します。その一因に商品経済の浸透と商業的農業の発展があります。困窮した小倉藩は享保期に藩札発行を行い、田川郡香春で銅山開発を再開しました。天文・宝暦・天明にかけて蝋・葛・卵・米など農村の商品作物が流通します。

 犬甘知寛(いぬかいともひろ)が安永六(一七七七)年、家老に就任すると、一人一日五合の面扶扶持制(めんぶちせい)(註)の実施、商人の問屋や渡海船等から運上金徴収、日明新地・紫川西岸新地開発をはじめ、企救郡曽根の庄屋石原宗祐に新地開発を命じています。藩の財政確立策は成功しましたが、農村人口の減少など農民の不満はたまっていきました。

註:面扶持制…家族の人数による与えられる給与の米

 しかし、小倉藩主は朝鮮使節への幕府正使となったことから、資金を使い幕府内での地位向上をめざしました。このことから藩士の不満が高まり、白黒騒動が起きます。政情不安から藩体制の再編強化のため、宇島築港整備や金山・銅山開発が行われました。さらに、文政十(一八二七)年の赤池村の国産会所(かいしょ)の設立と商品集荷もおこなわれました。しかし、経済力のない中での改革は豪農商の成長と農民の窮乏化が顕著となり、封建制度は大きく緩み差別体制強化へつながりました。

 天保期(一八三一―一八四五)は天災・凶作・飢饉と年貢御用金の増徴で農民生活は逼迫していきます。天保十五(一八四四)年には赤池村に石炭会所(かいしょ)が設けられ、瀬戸内塩田の燃料石炭供給や桑の奨励など殖産興業が進められるなどの島村志津摩(しまむらしづま)や小宮民部(こみやみんぶ)による改革が行われました。島村は金田や川宮の炭坑を視察しており、後に廃藩置県後の藩士の救済のため峰地炭坑を自らの私財をなげうって経営しています。

 尊皇攘夷の嵐の中で、長州藩士と結び画策していた英彦山勤王義僧らは藩に捕縛され処刑されました。佐幕派であった小倉藩と長州藩の対立はますます深まり、戦争回避策をとっていた小倉藩も遂に第一・二次長州征討の経過の中で、小倉戦争を戦わざるを得ませんでした。

 藩政最高責任者の小宮は小倉城を自焼させ、要地香春にこもり決戦の構えを見せます。小倉から企救郡金辺峠までが戦場となり、企救郡はその後、明治初頭まで長州藩の支配が続いています。家老の島村は金辺峠で戦を有利に導くと、慶応三(一八六七)年、香春藩となりますが長州藩との和議で終戦を迎えます。香春藩では香春思永館を設置し、さらに香春藩から豊津藩へと新生への道を歩みながら明治を迎えていきました。

(中野直毅)

小倉戦争絵巻(部分)八代市立博物館個人寄託