慶長五(一六〇〇)年十二月、丹後国宮津(京都府宮津市)十二万石の城主であった細川忠興は、豊前一国と豊後国国東郡および速見郡の一部で三十万石を与えられ、黒田長政が居城としていた中津城に入りました。
また、筑前一国は黒田長政に与えられ、慶長五年十二月初旬に中津を発して烏尾峠を越えて筑前に入り、十一日には前領主小早川秀秋の居城名島城に入りました。この時の領地の引継ぎでは、その年の年貢は新領地で徴収することになっていましたが、黒田氏は旧領地の豊前中津での年貢五万石を収納したまま移っていきました。忠興は激怒し家康に訴え、長政と交渉しましたが、すぐに返済ができないという回答で軍事衝突にもなりかねない緊張状態がつづきました。慶長七(一六〇二)年に先納分の返済は完了しましたが、両家の関係は悪化し、その後も両者の交渉は途絶えました。
翌慶長六(一六〇一)年十一月に忠興は小倉城に本拠を移し、企救郡門司城、田川郡香春城、同郡岩石城など七カ所の要所に重臣を配置し領国支配の体制を固めました。一方、長政は知行一万石以上の有力家臣を豊前との国境沿いに若松・黒崎・鷹取・大隈・小石原・左右良の六端城に配置して豊前との国境防衛に供えました。
江戸時代の初めの頃は長い戦乱が終わり戦後復興の時代でした。村々や町方、山々では各種の開発が進められ、労働力は必要となり人々の動きを活発化させ、労働力移動としての国境を越えた「走りもの(逃亡者)」を社会現象として引き起こしました。豊前と筑前間においても藩境を越えて走るもの(逃亡者)が少なくありませんでした。寛永三(一六二六)年頃まで両者間の交渉は途絶えており「走りもの」の返還は行われていませんでしたが、二代藩主忠利の代になると「走りもの」の返還が実施されるようになりました。しかし、寛永九(一六三二)年に細川氏が熊本へ移り、小笠原氏が入国すると、再び人返しは行われなくなりました。小笠原氏は徳川政権下の譜代大名であり、豊前は九州の要の地であるため、外様大名を監視する役割もあり、隣国の外様大名である黒田氏とは緊張関係にありました。
寛文から元禄年間(一六八八~一七〇四)になると幕藩体制は確立期を迎え、諸国の大名はようやく領内の統治をすすめたため、各地では国境争論が多発しました。そのため幕府は正保年間に作成していた国絵図の改定を企画し、元禄年間に国絵図改訂を指示して、隣国との国境の相互確認が義務づけられ全国的な国境争論が表面化しました。
元禄期の国絵図改訂時の国境論地
1.境川・堂ケ峰 2.姉子坂 3.烏尾峠
4.茶臼山・大王山(大谷口) 5.切株峠(小石原村) 6.筑後川(志波村)
a合楽村論地 b大野村論地 c背振山論地
出典:『元禄国絵図の調製と国境整備』川村博忠 1975
筑前福岡藩は元禄の国絵図改訂の直前に肥前佐賀藩との背振山国境争論で敗訴した経験がありました。その敗因が正保年間の国絵図に国境記載の不備があったことから、国絵図改訂にはきわめて積極的でした。豊前国との国境交渉も用意周到で、国境筋六か所の論地(ろんち)(註)をすべて内談にて解決することに成功しました。更に福岡藩では新国絵図献上の後、領内の国境筋全庄屋に対して国境条目を通達し、いったん確定した国境の遵守を命じ、国境争論の再発防止に努めました。
註:論地…争われている係争地
福岡藩は豊前国との国境確認のため、元禄十(一六九七)年十二月より国境筋各村の庄屋に命じて論地にかかわらず測量を断行し、豊前国境に五か所の論地がありました。そのうち田川郡との境は、豊前田河郡糸田村と筑前嘉麻郡鹿毛馬村の境(烏尾峠)、豊前田河郡猪膝村と筑前嘉麻郡上山田村(大王山・茶臼山)、豊前田河郡落合村と筑前上座郡小石原村の境(切株峠)の三か所がありました。いずれも豊前・筑前両国をつなぐ峠道が国境を越えるところです。
烏尾峠では双方各自で設定していた境塚が齟齬(そご)していたため、両塚の中間を以て国境線とし、双方の境塚をこの界線まで引き下げて、等分的に国境が決定されました。元禄十四(一七〇一)年に幕府に献上された豊前・筑前両国の絵図には糸田村・鹿毛馬村(烏尾峠)、猪膝村・上山田村(大王・茶臼山)、落合村・小石原村(切株峠)には「国境杭」の記載があります。元禄十三(一七〇〇)年に国境の取り決めがされると、その後、加工石による藩・国境標識を設置して藩境と国境が整備されました。現在、標高六三三mの鷹取山頂には豊前国境に鷹取城址があり、彦山川沿いの田川郡福智町諏訪山には「從是東豐前國小倉領」と刻まれた藩境石が残っています。飯塚市鹿毛馬の烏尾峠には「從是西筑前國」と刻まれた国境石があり、鹿毛馬公民館敷地には最初に建てられた「從是西筑前領」と刻む藩境石が移設されています。嘉麻市上山田の大谷口には「從是西筑前國」と刻まれた国境石が残っています。