烏尾峠の国境石

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【関連地域】糸田町

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 町指定文化財第七号国境石(史跡) 国境石については、糸田・頴田両町の境界線上にかかる国境石三基が指定文化財となっています。古代からの交通の要衝としての旧烏尾峠(現在の国道二〇一号新烏尾峠は大正四(一九一五)年着手・同十一(一九二二)年完成)と国境石の関係も非常に大切になってくると考えています。

烏尾峠の国境石(糸田町・飯塚市頴田町)


 まず、烏尾峠の名称の由来ですが、峠にさしかかった神武天皇一行が、一羽の烏に導かれ、悪天候の中を無事に峠越えが出来たという伝説にちなんでつけられているそうで、伝説とは別にしても、国境石真下に所在する烏尾峠古墳をみていると、古代から飯塚~田川間の通路となっていたことが容易に想像できます。

 また、貝原益軒の記した『筑前国続風土記』「嘉麻郡庄内河内」の中に、「仁保村より東に越えて、豊前に行く道有り。大道なり。飯塚より豊前田川郡糸田へ二里半余有り。仁保と糸田の間、からす尾嶺あり。これ筑前豊前の境也。仁保より不全境迄二十六町三十四間有り。糸田より香春へゆく」と記述があり。飯塚より、田川へ抜ける主幹道として旧烏尾峠が機能していたことがこの文章よりよくわかります。

 上記の内容をふまえたところで、国境石の設置された経緯について考えてみますと、事の発端は、天正十一(一五八三))年に発生した村民の争い(註)が黒田・鍋島両藩の間でも「背振山国境紛争」として続きました。此の境界争いは、一旦、山頂の峯分けで納まったものの、元禄五(一六九二)年に筑前側の農民が山を越えて開墾を始めようとしたことから、再度紛争が発生し、交渉は数年に及びましたが解決せず、幕府に上訴しました。幕府は正保年中に幕府に提出された絵図等を懸案しましたが、鍋島藩の絵図には詳細に土地の状況が記されており、元禄六(一六九三)年、幕府は、鍋島藩の絵図に基づき山頂を国境と裁定し、黒田藩は敗訴しました。

註:肥前三根、神崎両郡の村民と筑前原田領の村民との争い

 以上のような、苦い経験に基づき黒田藩は、後年の国境紛争に終止符を打つべく周到な準備を持って当たりました。特に元禄十四(一七〇一)年に作成された絵図については、他の絵図と比べても測量技術をみても段違いであります。

 その中で、旧烏尾峠に所在する筑前・豊前の国境線については元禄十三(一七〇〇)年十一月十日『豊前境目覚書』によって確定しました。(これらの話し合いは豊前の役人が、箱崎に出向き境界線を決めている)これらの境界線を決定した後、『鹿毛馬瀕年記』に境界杭が七本あったことが記述されています。このうち現在五本迄確認していますが、大境の石が立て替えられているとしたら、(天保五(一八三四)年に『筑前御境日記』に領を国に改めるとの記述があり、鹿毛馬公民館にある大境石も筑前領である)後三本確認されていません。

 またこれらの国境石は現在も町境として生きており、しかも原位置を保っていると云うことで、価値はあると考えます。

 また、此の峠道を森鴎外や山頭火が通行した様子がはっきりと分かっており現在、直に歩いた道として残っています。糸田側の旧烏尾峠街道の全容は把握していないものの残存しており、地元では大砲道と呼んでいるようです。

(岩熊真実)

鹿毛馬公民館に残る国境石(飯塚市鹿毛馬)


烏尾峠の現状