石炭発見の伝承と石炭利用 石が燃えた!

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【関連地域】田川市 福智町

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石炭発見の伝承

 石炭発見の伝説はいくつか残されていますが、基本的には、火を燃やしたところ、そばにあった石炭に火が燃え移ったことから「燃える石(石炭)」が認識された、というものです。その場所や登場人物が異なるだけで、内容としては同一なため、一つの伝承が変化して伝わったものか、各種の伝承が元からその場で代々受け継がれてきたのかは、定かではありません。

石炭発見伝承地の石碑(田川市伊田)


 最古の石炭発見伝説は、文明元(一四六九)年、三池郡稲荷(とうか)村の農夫・傳治左衛門(でんじざえもん)が稲荷山(いなりやま)で焚火(たきび)をしたところ、黒い石に火がついたことから石炭の発見、つまり「石炭が燃える石であること」に気がついたというものです。

 田川地域での石炭発見伝説は三池伝説から約一〇〇年後の天正十五(一五八七)年、芳ヶ谷(よしがたに)での発見伝説が残されています。これは、豊臣秀吉の九州攻めによって落城の憂き目にあった香春岳鬼ヶ城(おにがじょう)の城士村上義信が落ち延びたとき、目についた付近の黒い石でかまどを組み煮炊きしたところ、かまどとして組んでいた黒い石に火が燃え移り、燃える石・石炭の発見にいたったという伝説です。この石炭発見の場所は現在の田川市石場(いしば)とされ、石碑が建てられています。また、似たような発見伝説として、僧侶が野営中に、火を焚いて暖をとろうとしたところ、黒い石が燃え始めた、という田川郡赤池の坊主ヶ谷(ぼうずがたに)の発見伝説が残されています。

初期の石炭採掘の様子


 このほか、新しい発見伝説として、宝暦年間(一七五一~一七六四)、筑前国遠賀郡で堀川の掘削工事中に、お茶を沸かそうと火をおこしたところ、やはり黒い石に燃えうつり燃料として利用できると気が付いた、というものもあります。

 また、福岡以外の地域となると、佐賀唐津では享保年間(一七一六~一七三六)に農民が石炭発見にかかわったという伝説が、北海道では安政(一八五四~一八六〇)の頃に栗山善八という者が石炭を発見した、などの話があります。このように、三池、田川から、唐津、北海道まで石炭発見の伝承が残されています。

 これら石炭の発見伝説はあくまでも確証のないお話ですが、一六〇〇年代になると、日常的に石炭が使用されていたとわかる記述が資料に散見されるようになります。

石炭利用の記録

 日常の燃料としての石炭利用について残る記録のうち、古いものは、ドイツ人医師ケンペルが記した『日本誌』です。これには、元禄四~ 五(一六九一~一六九二)年に、長崎(出島)から江戸へ参府するカピタン(長崎出島のオランダ商館長)に同行したケンペルが、木屋瀬(こやのせ)から小倉へ向かう途中、黒崎で石炭を掘っているのを見たということが記述されています。ほか、貝原益軒(かいばらえきけん)の『筑前国続風土記』には、遠賀郡、鞍手郡、嘉麻郡、宗像郡の山野に燃え石(石炭)があり、村民が薪(たきぎ)の代用として使っていたという記述があります。また、司馬江漢が記録した『西遊日記(さいゆうにっき』には、小倉から黒崎、木屋瀬を通り飯塚の民家に宿泊した際、火鉢で石炭を燃やしていること、風呂も石炭でわかしていたことが記載されています。『西遊日記』には、石炭に含まれる硫黄の成分が燃えていると解釈し、とても臭かったことまで書かれています。

 『日本誌』は元禄四~五(一六九一~九二)年、『筑前国続風土記』は元禄十六(一七〇三)年、『西遊日記』は天明七(一七八七)年頃に書かれているので、一四〇〇~一五〇〇年代に石炭が燃える石として発見された後、石炭を薪の代用として燃料とする習慣が一六〇〇年代には根付いていたと考えると、石炭発見の伝説もあながち間違いではないかもしれませんね。

(朝烏和美)

ケンペルが作成した豊前の地図 出典:『日本誌』

※当時日本の地図は作成・持出禁止


カピタンとケンペル一行の様子 出典:『日本誌』


初期の石炭採掘の様子


 

番田河原神幸唄

 伊田の番田の孫右ヱ門さんな

  孫敵の水車

 さあさ押せ押せ船頭も舵子も

   押せば港が近くなる

 上伊田石場にゃ焚木はいらぬ

   善五郎谷には燃える石

      (略)

 遠賀下れば山部で泊まる

   泊まり涼しや花だもの

      (略)

 番田河原(ばんだごうら)神幸唄は、歌詞からみると「船頭唄」ですが、水運の衰退で「神幸唄」となり、明治末には姿を消しました。また、歌詞に登場する「善五郎」が石炭を発見した者であると推測され、「燃える石」という古称で登場する石炭が、当時は薪の代替とされていたことがわかります。