豊前国を細川公が治めていた江戸時代初期、現在の北九州市小倉南区と田川郡香春町の境である金辺峠(きべとうげ)付近からは、莫大な量の金が採掘されていました。
寛永九(一六三二)年、小倉藩二代藩主細川忠利公のとき細川氏は肥後熊本に転封となり、小倉城には播磨(はりま)の国明石より小笠原氏が入城してきます。小笠原氏は石高十五万石ではあるものの、徳川家康と姻戚関係があり、島津氏、細川氏、有馬氏、立花氏、鍋島氏などの有力外様大名を監視する譜代大名として幕府から役目を与えられて小倉藩を統治していくことになります。
お国替えとなった忠利公は金辺峠にあったと言われる隠し金山から掘り出された莫大な金を使って金無垢の仏像を作り、金辺峠にあった茶店の主人に管理を託していました。熊本への転封にあたり、金無垢の仏像を峠においていくわけにもいかず、熊本に持っていくことになりました。しかし殿様が熊本に行った夜から観音様が殿様の夢枕に毎夜たち『われは金辺に帰りたい』と悲しい表情で訴えるようにつぶやきました。不思議なことに金辺峠の茶店の主人の枕元にもまったく同じように観音様が現れ『金辺へ帰してくれ』といったといわれています。
金無垢の仏像を金辺へ返すわけにもいかないので、忠利公は同じ姿の木彫りの観音像をつくらせたうえで金辺へ返したのが今に伝わる金辺観音といわれています。
金辺観音はもちろん昔話の世界ですが、小倉南区の平尾台南端の龍ケ鼻(りゅうがはな)(六八一m)から金辺峠、香春三の岳にかけて金山があり、江戸時代にはかなりの産出量があったことは事実です。尾根を越したみやこ町河内地区でも金は採掘され、砂金採りも行われていたと伝わっています。
龍ケ鼻から採銅所の谷を隔てた南に香春岳三の岳(五〇八m)があります。もともと平尾台(龍ケ鼻)と香春岳(三の岳)は同じ高さだったのですが、地殻変動により、採銅所の谷が大きく陥没した地溝帯となりました。この時に、巨大なエネルギーに加えマグマによる熱作用を受け、龍ケ鼻側は金、香春岳側は銅鉱脈が形成されたという学説があります。
『香春町史』や『郷土かわら』によると、細川公時代には莫大な金を製錬してことから金辺峠には金鉱脈があったと考えられます。かなりの誇張はあるでしょうが、採銅所金辺峠のふもとにはモズの頭ほどの自然金が採れたので命名された百舌鳥原(もずはら)金山、近くには金山労働者のためにできていた花街の女郎さんの墓標の代わりといわれている女郎松、みやこ町河内には、山中にベベ(子牛)ほどの金鉱石があり、そこから砂金が流れ出ているという伝説等、いろいろ伝わっています。
味見峠と仲哀峠の尾根続きに金峯山という山があり、ここには蔵王大権現が祀られています。熊本にも金峰山という山があり、頂上に金峯山神社が鎮座しています。縁起によると天長九(八三二)年、奈良県の金峯山蔵王大権現を勧請してのち、飽田山から金峰山に改称されたと伝わっています。 江戸時代に書かれた『太宰管内志』では金辺峠は〝木辺峠〟と書かれています。伊能忠敬は文化九(一八一二)年と十(一八一三)年に金辺峠を越えていますが、『測量日記』でも金辺峠と書かれており、金山伝説が木辺を金辺に変えていったのでしょう。