コラム 「英彦山がらがら」口ばっかり

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【関連地域】添田町

 英彦山みやげで、一番にあげられるのが「英彦山がらがら」です。現在窯元は一軒のみで、福岡県の伝統工芸品に選定されています。素焼きの小さな土鈴の口に陰陽を表す青、赤の色を施し、穴に藁を通したものを五つ束ねています。振ると「からから」という音色が語源ともいわれています。

 英彦山がらがらの由緒書には慶雲四(七〇七)年、大干ばつで田畑も干上がり、餓死者が出るほどでした。困り果てた文武(もんむ)天皇は英彦山に勅願を立て、祈らせるとにわかに雨が降り、干ばつ被害から逃れることができました。その礼として文武天皇は銅鈴一口を奉納したといいます。その後、英彦山は戦乱に巻き込まれ、鈴は行方知れずとなってしまいました。文治二(一一八六)年、肥前綾部居城奥平四郎太夫が神器を模した大鳥形飛騨鈴種々獅子首等を寒水(しょうず)土駅付近(現、佐賀みやき町寒水)の土器作者に作らせ、英彦山に奉納したことが現在の英彦山がらがらの起源といわれています。実際、みやき町寒水の長崎街道遺跡などでは、猿型土製品の下部に土鈴を付けた猿型土鈴が出土しており、この「猿がら」が英彦山がらがらの祖型といわれています。 平成二六(二〇一四)年、英彦山の総合調査中に座主院から猿形土鈴が一点出土しました。この土鈴はやや簡素化されているものの、鈴部と猿形が一体となったもので、このような「寒水産猿がら」が英彦山がらがらの原型であることを裏付けました。

 猿は日吉神山王権現の使いである天台守護神で、英彦山十二所権現曼荼羅の下部にも日吉山王権現の使者として描かれています。しかし、後代になるとハグレ一匹猿が現れると悪事が起こるとし、火災が起こったりしたことから、猿が忌み嫌われるようになると猿形はなくなり、今の形になったといわれています。

 このように英彦山がらがらは英彦山信仰の象徴であり、寒水で作られる要因は綾部、竜造寺、鍋島と代々の肥前国主が英彦山を篤信(とくしん)し、領民は代参講、権現講と称して盛んに英彦山参詣しました。英彦山のお札とともにその土産には必ず「英彦山がらがら」が持ち帰られ、村内の人々に配られました。今でも、がらがらは門口に掛けられ、魔除けとされています。

 英彦山がらがらにはもう一つ、実行力を伴わない口数だけのものを戒める諺(ことわざ)があります。今の世の中には、どれだけ「口数者」が多いことか。「彦山がらがら口ばっかり」とならないよう肝に銘じたいものです。

(岩本教之)