千利休のもとで佗び茶の奥義を極めた細川忠興(ほそかわただおき)と文禄・慶長の役で日本へ渡来した李朝陶工尊楷(そんかい)、この二人の運命的な出会いによって上野(あがの)焼の歴史の扉が開かれました。
関ヶ原の戦いで功を挙げ、慶長七(一六〇二)年、豊前小倉藩主となった細川忠興(三斎)がこの地に尊楷を招いて築窯(ちくよう)させたといわれています。尊楷は地名にちなんで上野喜蔵と名を改め、利休七哲の一人である「三斎好み」の格調高い茶陶を献上し続けました。細川家(忠興・忠利父子)の統治は三一年間と短いものでしたが、この間に上野焼の確固たる礎が築かれたのでした。
尊楷は福智山の南西側の麓の上野(福智町)の谷に窯を築きました。上野には、全長四一mの階段式連房登窯の「釜ノ口窯」、主に小笠原時代の「皿山本窯」があり、上野の東側の弁城岩屋の谷には釜ノ口窯とほぼ同時期と考えられる「岩屋高麗窯」があり、詳細は分かっていませんが「吉右衛門谷窯」も存在したとされます。藩主が小倉城下の菜園場に窯を設けたという記録があり、昭和五〇(一九七五)年の発掘調査でこれと符合する窯が明らかになりました。
この窯は昭和六二(一九八七)年に福岡県有形文化財(考古資料)に指定されています。この「菜園場窯」は、全長十六.六mの小ぶりの割竹型登窯で、窯に雨水が浸水しないよう斜面上に排水溝を巡らせるのが特徴です。この特徴は十七世紀に使用が終わる朝鮮半島の窯にもみられる構造です。
その後、細川忠利が寛永九(一六三二)年に肥後熊本へ国替えとなり、小倉藩主は小笠原忠政(忠真)に代わります。上野喜蔵は、妻と三男の十時孫左衛門、娘婿の渡久左衛門たちを上野に残して肥後に移り、肥後で「八代焼(高田焼)」や「小代焼」を生みました。上野の「皿山本窯」は小笠原藩の御用窯になります。この決断が上野焼存続の危機を救い、上野の炎を燃やし続けることにつながっています。
また、上野焼の作風は大任町今任原の「田香焼(でんこうやき)」窯の出土品や香春町高野の窯にも伝わっています。今任原窯は焚口が狭い全長一五mの連房式登窯で、一九世紀初め頃に陶器と、わずかながら磁器も焼いたようです。 細川氏にかわって小倉城に入城した小笠原忠真も茶道に精通した藩主でした。上野焼はこの小笠原家のもと、藩窯として庇護され、幕末まで守り継がれていきます。
廃藩置県後、上野焼は一時的に途絶えたかのように思われましたが、明治三五(一九〇二)年田川郡の補助を受け、熊谷九八郎らによって再興が遂げられました。その後、土と炎に挑む陶芸家たちが続々とこの地に白煙を立て、上野の炎は再燃されます。
昭和五八(一九八三)年には経済産業大臣指定の伝統的工芸品となり、約二〇軒の窯元が今日まで点在。長い伝統から生まれた多彩な技法を駆使し、それぞれの窯元が陶技を磨き続けています。
数々の苦難を乗り越え、心と技を幾世代にもわたって伝えながら、伝統を守り、昇華させてきた先人陶工たち。四〇〇年を越える悠久の歴史の背景には、その計り知れない労が、深く刻まれています。