江戸時代には、多くの災害が発生し農民を苦しめました。その中でも三大飢饉(ききん)として知られるのが、享保(きょうほう)・天明・天保の飢饉で、最も大きな被害をもたらしたのが、享保の大飢饉です。享保十七(一七三二)年、この年は四・五月の大雨で麦が腐り、七月からは、ウンカ、イナゴが西日本一帯に異常発生して、かつてない大凶作となりました。
小倉藩では、城下町の外に粥(かゆ)を施す施設を設置する他、村々に対して救済米の放出も行いましたが焼け石に水で、とても切り抜けられる状況ではありませんでした。そのため人々は飢えに苦しみ、いたるところに死体が放置されるという状況で、さながら地獄絵図であったといわれています。
小倉藩は十三万人の人口のうち餓死者四万三千人余りを出し、田川郡でも人口の四割に相当する六七三五人が餓死しました。
飢饉で亡くなった人を弔うために、各地で供養が行われました(表・図)。小倉開善寺の住職大宙禅師は、藩命によって領内の餓死者を調査しその冥福を祈って廻りました。後に延享元(一七四四)年、過去帳を作り供養塔を建てています。田川地域でも、田川市内では、伊田の成道寺(じょうどうじ)境内に、宝暦六(一七五六)年、供養塔(施主として糒村の紅田權平吉文の名があります)が建てられ、死者の大供養が行なわれました。毎年土地の人によって供養が行われていましたが、年と共に廃れ、最近では成道寺の住職が年に一度その霊を弔っています。
また定林寺(じょうりんじ)(後藤寺平松)の境内には、餓死者の御霊を納めたと云われる石祠(せきし)があります。現在のものは、その後再建されたもので、前面左側に「天保六未年再興」と書かれた石柱が埋め込まれています。餓死者を弔うために始められた盆踊りは毎年八月二四日に行われ、現在でも田川地区を代表する盆踊りです。法光寺(田川市川宮)には、慰霊碑が多くありますが、その中の一つに花崗岩(かこうがん)で作られた享保大飢饉の慰霊碑が立っています。
香春町では、高座石寺(こうぞうじ)(香春町香春)に享保飢饉の餓死者を祀った地蔵堂があり、八月二四日には、万年願の盆踊りが行われています。近くの神宮院にも天明の飢饉のものですが供養塔があります。下高野の薬師堂は享保一八(一七三三)年に飢饉の影響で悪疫が流行ったのがきっかけで創建されたと云われています。
福智町には、旧金田町の碧巌寺(へきがんじ)の餓死者慰霊碑、旧方城町の伊方野添墓地に餓死者供養塔、浄万寺(弁城)の個人の敷地内に祀られている餓死者供養碑、旧赤池町の若八幡神社(赤池)に餓死者の碑があります。
糸田町には、鼠ケ池(ねずがいけ)の千人塚、宮床の御大師堂、伯林寺境内には、供養碑の他、犠牲者と思われる個人墓も立っています。
飢饉の空腹に耐えかねた人達は、隣国まで食べ物を求めてさまよったようです。旧筑前国の佐与地区(飯塚市)には豊前墓と呼ばれる一字一石塔があります。由緒によると、「佐与村に行くと『お粥』がもらえるという噂が豊前の国に広がり、人々は弱った体にむち打って、佐与村をめざして歩きました。ある朝、佐与村の人たちは、村の入口の小さな峠で力尽き折り重なるようにして死んでいる豊前の人達を見つけ、この峠の近くに埋葬し、小さな石を墓石としました。そして、峠の麓に「一字一石塔を建てた」ということです。
飽食の時代といわれる現在では、想像もつかない歴史上の出来事ですが、食物の大事さを考えるうえで伝えていきたい話です。