猪膝(いのひざ)宿 国境地帯の宿場まち

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【関連地域】田川市

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 猪膝(いのひざ)宿は、筑前国嘉麻郡(嘉麻市)へと通じる通称猪膝街道の宿場町で、江戸期から明治期までは豊前国と筑前国の経済流通の窓口でした。このため、田川地域では、香春宿、添田宿につぐ商業集落であり、明治初期の『豊前村誌』によると、全戸数一三四戸のうち八二戸が商業に従事していました。

 明治末期ごろの街並みは下図のとおりで、この宿場の経済流通の中心をなしていた甘木屋の前には「駄ツボがほげる(荷を積んだ馬足あとで地面がほげる)」といわれるほどさかえていました。問屋場(甘木屋と同一)はこの付近と思われます。

 猪膝宿はお菓子も盛んに作られており白鳥神社にもお菓子屋が奉納した大きな御手水鉢(おちょうずばち)と大鳥居があります。ここで修行をしていた職人が現在の山田饅頭につながっていると伝えられています。

 北と南の宿場町の入り口には、構口(かまえぐち)⑪や(現在は南側⑭の一部が残る)、町の中心部には恵比須を祀る祠があり、数戸の旅籠屋(はたごや)がありました。

 現在の白鳥保育園と猪膝公民館の場所には、地元では「お上」と尊称されていた大庄屋の猪膝家の屋敷がありました。「お隣」と称される旧地主の中村家には藩主が休息のために出入りする際にのみ用いられた「御成門(おなりもん)」があります。密厳寺付近には文禄元(一五九二)年の猪膝家の墓碑があります。

御成門(「お隣」中村家)(田川市猪位金)


 旅籠屋湊屋⑮は猪膝峠⑨に道標を立てています。手形を彫り込み「右ひこさん 左ゆす原通ぎおん」とあり、今井の祇園社への重要交通路であることを示しています。位登の高倉越や道原から添田町への道と共に重要でした。金国山には立尾城・板屋城がありました。位登の高倉越近くには下城・上城があったと伝えられています。田尻から木城を経て添田へ抜ける道を警備するように勝山城がありました。猪膝は国境の重要な宿場町として中世末から発展してきたのでしょう。

下町から金国を経由して三ヶ瀬・後藤寺へ至る道


猪膝宿 大隈から坂谷を経由して上町へ至る道 小倉(秋月)街道

田川市基本図1/2500を加工して作図

①太祖神社 ②旧天満社 ③下宮④恵比須社 ⑤琴平社 ⑥密厳寺⑦安養寺 ⑧白鳥神社 ⑨猪膝峠⑩小園峠 ⑪北構口跡(道標)⑫旧国境石(移築) ⑬猪膝家墓碑⑭南構口 ⑮湊屋 ⑯猪膝家跡⑰中村家御成門


中津道追分 「伝 北構え口跡」(下町)


 文化十(一八一三)年十月十日には伊能忠敬の測量隊が大隈町を出発し、猪膝・後藤寺・伊田を通過し香春まで測量しており、猪膝では大庄屋猪膝平四郎方で小休止しています。

 近代には造酒屋は二軒で、大隈町の三軒と比較することができます。白鳥神社では江戸時代より奉納相撲が盛んに行われていました。

 この神社には田川市指定文化財(有形文化財彫刻)「白鳥神社(猪国)の石造(せきぞう)狛犬」(指定日平成二九(二〇一七)年十一月二〇日)があります。説明板によると「白鳥神社(猪国)の石造狛犬は、江戸時代初期~中期(十七世紀初~十八世紀前半)にかけて、肥前(佐賀県)で製作された肥前狛犬と呼ばれ、田川市に残された石造狛犬としては、最古級に位置付けられます。肥前狛犬が田川市内にある理由の一つに、田川には古来より英彦山を崇拝する儀礼があり、江戸時代には佐賀藩(鍋島)でも英彦山を崇拝し、人々の往来が行われていました。このため、石造物を通した彦山と佐賀藩との繋がりや、民間信仰の関係が考えられます。」さらに、太祖神社と英彦山山伏の祭礼などの伝承もあり、北構口跡(下町)から猪膝峠の方へ向かうと豊前坊社があります。

大谷口の国境石(嘉麻市大谷)


 国境石は大谷口にありますが、田川市編入前まではここまで猪膝村でした。現在昔の国境石は中村家⑫の邸内に保存されています。

(堀江一夫)

狛犬 阿形