江戸時代、街道の主要な地点には宿場町(宿駅とも)が形成されました。福岡藩では長崎街道上のいわゆる「筑前六宿(むしゅく)」(黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田)のほかに、地域間をむすぶ「筑前二十一宿」がありました。それぞれの宿駅では宿泊飲食はもとより、荷役のための人馬や物資の手配をする施設が整い、交通のネットワークを形成していました。一方で、旅人の宿泊は原則として許可された宿場町に限られていました。
「構え口」は宿場のシンボル
宿場町の特徴的な施設に、町の出入口の道路両側から突き出た「構え口」と呼ぶ築地塀(ついじべい)がありました。(写真1)絵画資料(『筑前名所図会』ほか)によれば、多くは低い石垣の上に漆喰(しっくい)塗りの白壁・瓦葺きの「袖壁(そでかべ)」とよばれるもので、発掘調査でも門扉や柵などの痕跡はみられません。たんに宿場町の出入口をしめす標識とも思える土塀です。
構え口は福岡藩を中心にその周辺でも作られ、久留米藩では「カメグチ(構え口)」佐賀藩では「構口橋」の地名が残っています。また、構え口は実際の方位に関係なく江戸に近い方を「東」、その反対側を「西」とよんでいます。
構え口に関心を持った武士もいて、嘉永三(一八五〇)年に長崎街道を旅した吉田松陰は「宿駅の出入口の左右から着物の袖のように石垣を築き、塀を建てるところが多い。これは有事のときの備えではないか」(『西遊日記』)と、軍学者らしい感想を記しています。
構え口の起源と目的
構え口はいつごろ出現したのでしょうか。古くは寛文九(一六六九)年、博多の石堂口に「左右之ねり(練)塀築立」(『博多津要録』)とあり、漆喰仕上げではない瓦葺き土塀が作られています。その後、宝永七(一七一〇)年、二日市宿(筑紫野市)では、幕府の巡見上使通行の際、白漆喰瓦葺きの塀を作りました。(『二日市宿庄屋覚書』)これは新築か改築かは不明ですが、付記に「宰府(さいふ)宿(太宰府)高橋口の構え口はこのとき出来た」とあるので、構え口は宿場が成立してしばらく後に整えられたようです。
その目的は宿場の威儀をただすため、また、町の内外を画すものと考えられます。実際、宿場(宿駅)とは構え口の内部をさしており、その外は厳密には宿場との扱いはされませんでした。そのため住宅や商い、その他生活の規制・許可に大きな違いがありました。
現存する構え口
今日、構え口の跡が残るのは筑前では長崎街道の木屋瀬(こやのせ)宿(北九州市)・山家(やまえ)宿(筑紫野市)の二か所です。木屋瀬の西構え口は築地塀を失い、基部の石垣のみが残るだけですが、戦前の写真では石垣は今より大規模だったことがわかります。(写真2)
山家宿は石垣・築地塀が現存していますが、幕末に描かれた『筑前名所図会』とは形がことなっているので、明治以降に改変されたと思われます。唐津街道の青柳宿のものは近年復元的に作られたもので、本来の姿ではありません。(写真3)
薩摩街道松崎宿(小郡市)の「構え口」は石垣と土塁を備え、一般的なものとは構造がことなり、宿場の構え口とするのには無理があります。松崎は当初久留米藩の支藩の城下町だったので、当初城下町にかかわって築かれたものが、のちに宿場町化したときに構え口とみなされたようです。
豊前国猪膝の構え口はどうでしょうか。猪膝は秋月街道の宿場町であると同時に、明治以降石炭産業で伊田・後藤寺が栄えるまで、田川地域唯一の商業地でもありました。また福岡藩領との境目の地でもあり、地政的にも重要な地点でした。
今日、現地には「南」(正しくは西)構え口跡が残っています。(写真4)土塀は失なわれ、基部の石垣だけが残っていますが、整美な切石を積み、道路側と山側とで高さを変えた手の込んだ造りとなっています。小倉藩領では猪膝宿以外に構え口の例はなく、唯一作られた猪膝の構え口は、隣接する福岡藩を多分に意識して威儀を示したと考えられます。