街道の名前
街道は道、往還(おうかん)などと呼ばれ、目的地に応じて香春道、猪膝道などのように同じ道でも呼び名が異なります。近世の田川の街道には、小倉―香春町「小倉街道」、香春町―秋月町「香春道」「猪膝道」「筑前大隈道」「秋月街道」、香春町―天生田(あもうだ)(行橋市)「香春道」「中津道」、香春町―飯塚町「烏尾越筑前飯塚道」、落合村―日田町「豊後日田道」、落合村―小石原村「小石原道」、彦山町―彦山坊「彦山道」、上野―直方「上野道」などがあります。
近年、秋月街道と呼ばれるようになった小倉から久留米へ至る街道は、徳力―呼野―採銅所―香春―猪膝―大隈―千手―秋月―野町―松崎の宿場があり、田川の宿場は猪膝宿と香春宿です。
この小倉街道(秋月街道)は、道幅は三~四尺(〇・九m~一・二m)で全長約九〇kmあります。また、英彦山参詣の彦山道では、添田宿が発達しました。小倉街道(秋月街道)は、長崎街道が冷水峠の開削によって拓かれるまでは、戦国時代から江戸時代前期にかけての北部九州の幹線で多くの戦国大名が利用し、小倉街道、小倉道、香春道、猪膝道などと呼ばれてきました。伊能忠敬の『測量日記』に秋月では「秋月街道測る」と記され、同じ道が香春町では「小倉道」と記されています。
近世に増加した道標
近世・近現代における道標は、①行く先地名などが刻字された標石 ②巡礼路、寺社参詣道までの町(丁)を記した町石 ③庚申塔などの道しるべ的存在 の三つに分けられます。はじめのころ道標は信仰と深いかかわりを持ち、道標や町石は中世にさかのぼりますが、多くは江戸期以降に建てられました。近世になると、道標は信仰の制約がなくなり、一八〇〇年代に全国的に増加しました。道標の増加を後押ししたのは、伊勢参りの流行等の影響が大きく、宝永のお蔭(かげ)参り(一七〇五)、明和のお蔭参り(一七七一)、文政のお蔭参り(一八三〇)があります。それ以外にも富士山、秋葉神社、豊川稲荷、近畿では、熊野、高野山、金毘羅宮、四国の霊場巡り、英彦山などの寺社が参詣の目的地となりました。
田川で信仰のために建てられたのが「高野の追分碑(香春町)」です。一八〇〇年代に『東海道中膝栗毛』などの旅行読み物が流行しました。浮世絵の『東海道五十三次』で各地の風景が広まると、信仰・商用・観光などの旅が幕藩体制の枠組みを超えて広がり、多くの道標が設置されていきました。道標の設置場所は、街道の分岐点、街道から村や参道への分岐点、迷いやすい山道と街道との分岐などで、個人や講などの集団によって寄進・建立されたものです。
五街道などに道標を設置する場合や付属する街道では、村役人をとおして道中奉行にうかがいを立てなければなりませんでした。建て替えの時も新設時と同様の手続きが必要です。道標が石造であれ、木製であれ手続きは同様です。連絡の往還(おうかん)であれば、道標などの設置手続きは村役人の同意を得る程度です。田川市猪国の「猪膝峠道標」がこれにあたりますが、手形が掘られている珍しい道標で、英彦山や今井津須佐神社(旧今井津祇園社)を示しています。
近代の道標
近世、道標は私的なものでしたが、近代、道標は中央政府の地方支配の一端を担い国家統制の一つとして機能していきました。明治二(一八六九)年に各府県に「府県境界木標」の設置を布達し、明治三(一八七〇)年に一里が三十六町と定められました。次いで、明治六(一八七三)年には道路が分類され、明治政府の道路行政が始まりました。明治六(一八七三)年十二月二十日、政府は距離里程の把握のため調査を命じ、里程仮標を設置すると、明治九(一八七六)年には江戸時代の一里塚を廃止しています。明治十(一八七七)年頃から、府県に「里程表記」の標木を立てさせました。
『測量日記』に書かれた道標
『測量日記』文化九(一八一二)年七月十四日「香春町字山下、筑前豊前街道追分碑に繋ぐ」とあります。これは山下町の町口の道標位置で「従是西猪膝道 従是南豊後日田道」の高さ一二〇cmの道標が立っています。『測量日記』の文化十(一八一三)年十月十日「下香春村香春川巾十四間、左上野通筑前追分あり、枝新町」とあり、下香春の新町道標位置で「従是南猪膝通筑前道 従是西上野通筑前道」の高さ二〇〇cmの道標が立っています。
さらに、「一印より初め、豊後日田追分(申七月十四日打止置く)碑に繋ぐ、五丁二十七間三尺五寸、これより小倉道を測る」とあり、小倉道と称していたことがわかります。
それ以外にも何度もつくりなおされた道標が残っている「梅ケ原の道標」や矢印が記された「上落合の道標」も貝吹峠から英彦山へ参詣する重要な道標です。みなさんも町に残された道標を見つけにいきませんか。