『くにざかいの碑(藩境石物語)』(古賀敏朗著)という本があります。これは佐賀県嬉野在住の著者が地元に残る長崎街道俵坂の関所(注 幕府ではなく藩の管理下の施設なので正確には〝口留番所〟)等の各地を訪ねその成果を表した名著です。
田川市と嘉麻市の境、大谷口には豊前国と筑前国の境を示す国境石があります。立派な石柱に達筆な行書体で両国の国名を彫り込まれたものですが、江戸時代のものではないと伝えられています。この近くの醸造業を営む当時の当主が、国境石(筑前国)が風化していくのを見てしのびなく思い、代わりに新しい国境石を建てることを条件に、古い国境石を自宅にて保存したという経緯があると聞きました。
藩政時代の国境石は自藩の権威を示すものであり、いわば表札と同じです。隣り合う藩との領地争いは昔からよく起こっていたことですが、境界争いが激しかった地域は凄まじいほどの境石が林立している地域もあります。通例、藩境には各藩の境石が建てられることが多く、藩の格や石高の大小によって小藩は大藩より大きく立派な石柱は遠慮したようです。
英彦山山中、岳滅鬼(がくめき)峠は小倉藩と日田との境になります。小倉藩側には立派な石柱が建てられて小倉藩を示す証は今でも健在です。しかし天領日田を示す標柱は見当たりません。この延長上になりますがJR日田彦山線宝珠山(ほうしゅやま)駅近くの国道わきにも〝従是北(これよりきた) 筑前國〟の石柱はありますが日田の境石は確認できません。推論ではありますが、国境石は自藩領を示し、国境線を侵犯されないものです。幕府の威光が光る〝天領日田〟の国境侵犯を侵すものはないため、日田側(幕府)にしたらわざわざ石造りの国境石は必要なかったのではないでしょうか。
この峠にはもう一つ大きな謎があります。折れた数本の石柱の残骸、かつて石柱があったと想像できるような四角の穴が掘られた台石などがあり、まるで国境石の〝墓場〟となっています。英彦山は極寒の地であるとともに、雨や雪も多く木々も大きく育ち、当然倒木も発生します。これら気象的な条件が国境石の墓場を生み出したのでしょうか。
相手は天領日田であり、幕府に対しても敬意、さらには霊地である英彦山への畏敬の念などが重なり度重なる修復になったのかもしれません。
香春町と小倉南区との境、金辺(きべ)峠には「企救(きく)・田川郡境石」があり、一本の石柱に「從是北(これよりきた)企救郡 從是南(これよりみなみ)田川郡」と彫られ、峠の掘割道上部に建てられています。これは国境とは違い自領の中の郡境を示すものなので一本に彫られていると思われます。この郡境石は仲津・田川郡境石(添田町と京都郡みやこ町 焼尾(やけお)峠)や赤村石坂には仲津・田川郡境石などがあります。まさに江戸時代のタイムカプセルのようなもので、当時の旅人や地域の営みを今に伝えてくれる貴重な文化財です。
また香春町上高野には自然石に「右 大師道 左 中津道」と彫られた追分(おいわけ)石があります。これは左の道は現在の国道二〇一号、仲哀峠を越えての道、右は上高野地区の一番奥にある上高野観音寺への参詣路を示すものです。上高野観音寺は弘法大師が開いた霊場といわれ、真言宗の霊地 高野山から弘法大師が土を持ってきて、この地に埋めて霊場とした言い伝えがあります。この故事により高野山の〝こうや〟を訓読みにして地域の名前が〝たかの〟になったと言われています。この故事を伝える自然石は今もひっそりと道端で人々を見守っています。
このように藩の威厳を誇示(こじ)する国境石、人々の往来や営みに直接かかわりの多い郡境石、さらには村々に点在する追分石など、今我々に語り掛けてくれる石は、結構みなさんの身近にたくさんあると思います。日頃何気に通る道にも思わぬ発見があるかも知れません。
ただ、このようなモニュメントは道路改良などで移動している場合も多いので注意は必要です。