伊能忠敬(いのうただたか)は延享二(一七四五)年、上総国(かずさのくに)(千葉県九十九里町)に生まれ、下総(しもうさ)(千葉県香取市)佐原の伊能家を継ぎ、造酒業、米穀の取引などを手掛け名主や村方後見として郷土につくしました。寛政六(一七九四)年に隠居後、江戸に出て天文方高橋至時(たかはしよしとき)に天文学を学び、緯度一度の長さをもとめて寛政十二(一八〇〇)年から一七年間におよび、北海道から南は屋久島まで日本全国の測量をなしとげ、日本初の実測日本地図をつくりました。
伊能忠敬は幕府測量方として第八次測量で九州を測量しています。文化八(一八一一)年十一月二五日江戸出立。品川には長女稲をはじめ親類縁者、歴局(れききょく)関係者、間宮林蔵(まみやりんぞう)も見送りました。出立前、忠敬は家や商いについて「遺言状」ともとれる書状を長子景敬(かげたか)に送っています。万が一を考えたのでしょう。旅行日数は九一三日に及び最長の測量となりました。
測量隊は十九名ですが、小笠原藩の荷駄と測量の支援隊は推定百五十名を越えると考えられています。支援隊は村々から動員され、午前二時頃集合待機。先手隊は午前四時起床、六時前出立。後手隊は六時後出立しました。
田川における測量は第八次測量で二回行われています。第一回目は文化九(一八一二)年七月です。八日に大分県守実(もりざね)村で別働隊と本体は分かれて測量しています。別働隊は副隊長坂部を入れて五名です。九日は豊前国下毛郡と豊後国日田郡を測量し守実村(中津市耶馬溪(やばけい))に宿泊しています。翌十日は日田市を測量し止宿、翌十一日は日田郡から宝珠山村(朝倉郡東峰村)を経て小石原村(東峰村)まで測り小石原に止宿しました。翌十二日には小石原村から上落合村長谷(ながたに)から立坂を経て小中尾で本隊と合流し、順逆両手合測り昼前に彦山へ到着し昼食をとっています。
一方、本隊は十一日、豊前国下毛郡槻木(つきのき)村(中津市山国町槻木)を出発し薬師峠から豊前坊を経て英彦山会所まで測って止宿。十二日朝大雨。六時過ぎには小雨となり彦山町から小倉道を測量。桜馬場、銅鳥居(かねのとりい)から次手坂(ついでのさか)を下り唐ヶ谷(がらがたに)の小石原追分(彦山追分)まで雲母坂(きららざか)を下り、南坂本を経て、玉屋川の縁にあった茶屋祓川(はらいがわ)宅離座敷で小休止。その後、長谷(ながたに)付近の小中尾という所で別働隊と合流しました。
合流後、英彦山上宮まで測量していますが大雨の中下山し英彦山会所に止宿しています。十三日、小石原追分から落合村まで下りますが大雨で板橋が流れ廻り道して柳原まで測っています。妙見宮拝殿にて小休止。下落合村では庄屋善吉宅で昼休みをとっています。「緑川土橋二十四間」とありますから野田方面へ川を渡り、添田村・添田町まで測り、三時頃には「大庄屋添田保助、外勘三郎」の家に止宿しました。また、十三日忠敬らは十六日の小倉月食観測のためひと足早く香春に止宿しています。
十四日小雨から曇りの中、後手隊は添田町より始め、伊原村・成光村・秋永村・柿原村・上今任村まで測量。そこから、先手隊が測量し、下今任村十輪院で小休。そのとき、「宝蓋松あり」と記述しています。忠敬も真言宗でしたから、この松を見上げてほっとしたことでしょう。大正時代に鉱害で松は枯れてしまいましたが、平成三〇(二〇一八)年に二代目の松が植樹されました。
測量隊本隊は立隠坂を登ったところで「野陣小休」し、中津原村紫竹原から鶴岡八幡神社へ向かい八幡坂越で高野村へ至り、香春町山下の筑前豊前街道追分碑まで測りました。先手隊は昼前、後手隊は昼頃に止宿地の「米屋源右衛門、博多屋勘助」宅へ到着しています。
十五日小雨のち曇りの中、六時過ぎに香春町を出立。採銅所町と古宮八幡神社を経て呼野宿、徳力宿では庄屋勘右衛門宅で昼休。午後二時頃には小倉の止宿地へ到着しています。
英彦山での測量経路図
①豊前坊 ②英彦山会所 ③彦山町(小倉町)追分 ④銅鳥居 ⑤八龍地蔵尊⑥彦山追分(小石原追分) ⑦雲母坂 ⑧南坂本 ⑨元茶屋祓川 ⑩見吹峠
電子地形図25000(国土地理院)を加工して作図