伊能忠敬、大隈―香春を測る 測量経路(文化十年十月十日)

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【関連地域】田川市 香春町

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 伊能忠敬は第八次測量文化十(一八一三)年の六八歳まで測量を続けましたが、第九と十次測量は弟子によって行われました。『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』の作成に取りかかりましたが、文政元(一八一八)年四月十三日、七三年の生涯を終えました。地図は弟子たちによって、文政四(一八二一)年に完成されました。

 文化十(一八一三)年九月、佐賀で大手分(おおてわ)けを行いました。本隊は早良―福岡まで、別働隊は那珂川―福岡までを測量し合流しました。そこから、赤間、芦屋、木屋瀬、飯塚、甘木、大隈と進んでいます。

 十月十日には大隈から猪膝、後藤寺、伊田を通り香春まで測量しています。忠敬は十月十日の六時頃大隈を出発し峠を越えました。後手隊は「猪ノ鼻国界」で国境石を通過し「豊前国小倉領猪膝村字境谷」を越えました。今の坂谷です。

 猪膝町では本陣大庄屋猪膝平四郎宅で昼休をとっています。先手隊は猪膝町から密厳寺と石橋を通過し、三ヶ瀬川を土橋で渡ると盛安(森安)を経て後藤寺村に入り「左蛭子宮昼休武兵衛」とあります。現在、後藤寺商店街には西側に一段下がった商店裏の小道が残っています。蛭子宮もこの小道沿いにありました。昼休みは後藤寺の二村武兵衛の屋敷でとっています。測量隊だけでなく次々に訪れる支援隊のお茶やお昼ご飯で二村家は大変なことだったでしょう。

二村武兵衛御位牌


 測量経路は岩峠にあったと伝えられる「岩峠水の茶屋」を通過しています。この場所にあった元三井田川鉱業所の中央渡り廊下付近には旧県道が通っており、これが小倉街道です。田川の裁判所や田川市役所水道課付近から朝日寺(ちょうにちじ)下の道を通り、中央中学校付近では近くの山々を測量しています。田川小学校のプール付近から向かい側の旧道をたどり新町へ下り、国登録有形文化財「料亭あおぎり」の石垣付近を通りました。『測量日記』の中に「岩峠から上伊田村から新町の方向へ進むと左に恵美須社がある」と書かれています。田川市役所玄関前の丘陵には惠美須社の小さな祠が鎮座しています。小倉街道(秋月街道)は、栄町ではなく、丘陵上を通っていました。

三井田川鉱業所本部事務所の中央部を通る県道


惠美須社祠

田川市役所北側の丘陵(田川市中央町)


 岩峠は明治の頃「昼も木々がうっそうと茂り暗く女子どもは一人では通れなかった。水の茶屋は小笠原藩主が各地を巡るときお茶を召し上がった」と伝えられています。細川忠利が寛永九(一六三二)年から肥後国熊本に国替えになったときもこの街道を通られたことでしょう。

 旧伊田町役場あたりに古い地名が残っています。「拾丁分(じゅうちょうわけ)」と「中ノ陣(なかのじん)」です。現在の田川信用金庫東支店が中ノ陣で、旧伊田町(一九一四―一九四三)役場と派出所があった場所です。近くに「中ノ陣橋梁」が残っています。「拾丁分」は日の出町の踏切付近に「拾丁分橋梁」が残っています。番田町は、「番役人の所得していた土地故に番田」とあり、「中ノ陣」が番所で領田が番田でしょう。

 『測量日記』には「伊田川仮橋二十間」(三六m)とあります。伊能忠敬の歩測が六九cmすから、五六歩で渡ったはずです。測量隊は「鉄砲町鉄砲坂」を登り丘陵であった浄福寺本堂付近を通り自然寺付近で「野陣小休」しています。蛍が丘公民館側から丘陵をたどり太師堂下を通過し糸飛公民館裏付近を通りました。下香春で川を渡り、「左上野通筑前追分碑あり」と記録しています。香春神社では参道の二の鳥居神前まで測量し、さらに山下町の豊後日田追分まで測量しました。「これより小倉道を測る」とあり、善龍寺、問屋場、浄妙寺、山伏千手院、光願寺が登場してきます。香春町本陣には三時ごろ到着、本陣米屋源右衛門と博多屋勘助宅に止宿。その夜は天体観測を行いました。翌十一日は殿町を通過し金辺峠を越え呼野で昼休みをとりその日のうちに小倉に到着しました。

(中野直毅)

岩峠から大橋まで「伊能下絵図」からの測量経路復元図 ①~⑤は新町庚申塚の移転順  田川市基本図1/2500を加工して作図