九州の山岳路はすべて英彦山へと通じると言われるほど参詣路が幾筋も英彦山へと向かっていました。英彦山麓にある「津野高木神社明細帳英彦山古記抜書」には英彦山四門七口という門口の記述があります。それによると、英彦山四門として鳥居越を西門落合口(添田町)、津野峠を北門津野口(添田町)、伊良原を東門伊良原口(みやこ町)、霊仙見(りょうぜみ)を南門日田口(日田市)としていて、また結界口として津野七ツ石下に胎蔵界不動坂、落合崩岩より一丁(約一〇〇m)下に金剛界不動坂、宝珠山(東峰村)玉来宿(たまらいしゅく)を金胎不二門として三口を置き、「英彦山七口」としたと記述しています。これは英彦山聖域の清浄と旅行者の監視を目的としていたもの思われます。特に天領日田に繋がるに日田往還や中津城下からの中津街道に繋がる参詣道は整備され、峠には茶屋もあったことが記録されています。今も日田小野地区から登る岳滅鬼峠(がくめきとうげ)には小倉藩が建てた国境石が立ち、登山者の標識となっています。そこから筑前・豊前・豊後の三国境越で貝吹峠に出て、南坂本、雲母坂(きららざか)を通り、唐ヶ谷(からがたに)追分から大門銅鳥居(かねのとりい)を目指しました。雲母坂は浄土真宗の祖親鸞聖人(しんらんしょうにん)が京から比叡山へ修学ために登った坂の名で、英彦山でも聖域への修行の道として同じ名が付けられています。正徳三(一七一三)年、英彦山座主(ざす)相有は『彦山勝景詩集』を撰し、爽快な山風にキラキラと揺らめく木漏日の美しさから「雲母晴嵐(きららせいらん)」と題詠されました。ここを過ぎると唐ヶ谷追分からは小倉往還へと繋がり、小倉城下からは香春、添田宿を通り、落合口から入り登拝しました。途中、野田庄屋宮田家では旧暦二月一四・一五日に行われる春の予祝行事英彦山松会例祭(ひこさんまつえれいさい)の参詣者に「草鞋接待(わらじせったい)」を行っていました。宮田家の門口には江戸期から残る高札場があり、この場所に草鞋接待幟を掲げ、参詣者をもてなしたといい、文政元(一八一八)年の接待幟が残されています。
この松会例祭には、九州各地から遠路遥々(はるばる)七万人もの人々が参詣したといいます。村々では代参者が持ち帰ったお札や「英彦山がらがら」を神棚にお供えし、一年の家内安全や豊穣の祈りが捧げられました。英彦山古道を歩くと今も昔と変わらぬ、爽やかな風が参詣者を迎えてくれます。