日田咸宜園(がんぎえん)、水哉園(すいさいえん)の発展 水郷日田に学ぶ遊学者

206 ~ 207

【関連地域】添田町 福智町

【関連218ページ

 幕末の私塾と言えば全国的に有名なのが山口県萩市の松下村塾(しょうかそんじゅく)です。吉田松陰(よしだしょういん)の教えは、それ無くしては、日本を変え新しい明治という世の中ができたのか疑問を抱かせるほどの影響力を及ぼしました。豊前国小倉藩においても教育は熱心に行われ、小倉城三の丸に藩校である思永館(しえいかん)が設立されました。しかし江戸時代の学問の中心は朱子学であり、この教育の根本は君臣関係や身分の上下を基礎としていたため、近代教育とは言い難く、支配階級である武士しか学ぶことができませんでした。

 小倉戦争で小倉から香春に藩政府を撤退した折にも香春藩に思永館を設け、郡内各地に支館をつくりましたが、一般庶民の入学が許されないことは変わりありませんでした。しかし、田川に藩校が置かれたという事実は、田川の教育に特筆されるべきものです。もともと文政年間あたりより一般庶民の向学意識は高まり、私塾や寺子屋教育が盛んになっていきました。その土壌の上に藩校はあるものの、学ぶことができないという庶民のジレンマが私塾への憧れに変化していったのではないでしょうか。

 幕末から明治にかけて田川周辺では現在の行橋市にあった水哉園(すいさいえん)、日田咸宜園(かんぎえん)、さらには豊前市の蔵春園(ぞうしゅんえん)(恒遠(つねとう)塾)などが有名です。咸宜園遊学者の資料を見てみると文化七(一八一〇)年上赤の正福寺海乗から始まり文政八(一八二五)年には香春町の善龍寺釈良祐の名前が見えるものの、江戸時代は圧倒的に彦山の坊家が多く、次いで庄屋クラスの子弟などの名前を見ることができます。

咸宜園(日田市淡窓)


咸宜園座敷(日田市淡窓)


 これに対して水哉園の遊学者は香春をはじめ大任などの郡部在住者が多くを占めています。これはやはり地理的な要因が大きく左右されているのではないでしょうか。英彦山は日田に近くもともと交流が盛んだったので距離も近く、身近に感じたことでしょう。

 ここで日田咸宜園の歴史を見てみましょう。文化二(一八〇五)年、日田の儒学者・廣瀬淡窓(ひろせたんそう)が開塾し、その後、「成章舎」「桂林園(荘)」と場所や名前を変え、文化十四(一八一七)年、現在地に「咸宜園」となりました。「咸宜」とは、『詩経』の一節の「咸宜(ことごとくよろし)」という意味で、淡窓は門下生一人ひとりの意志や個性を尊重する理念を塾名に込めたといわれています。

 淡窓は、厳しい身分や階級制度のあった時代にもかかわらず、「三奪法(さんだつほう)」という入門時に学歴・年齢・身分を問わないことにより、すべての門下生を平等に教育しました。また、今日のテストにあたる制度も咸宜園にはありました。月一度、門下生の学力を客観的に評価し、成績を公表することにより学習意欲を高め、やる気を引き出す制度を「月旦評(げったんひょう)」として実施しました。そのほかにも、「規約」を定めることによって規則正しい生活を送らせ、門下生に塾や寮を運営させる「職任」などを制定し、学力を引き上げるとともに社会性を身につけさせる実践的な教育が行われました。これらは現在では普通のことではありますが、当時においては実に画期的なことで、身分や階級を問わない三奪法は特に進歩的な教育改革であったといえるのではないでしょうか。

廣瀬淡窓(1782~1856年) (咸宜園所蔵)


 淡窓没後もその思想は門下生に引き継がれ、明治三〇(一八九七)年に閉塾するまで、およそ五〇〇〇人もの門下生が学んだといわれます。その門下生には日本陸軍の父ともいわれる周防(すおう)出身の大村益次郎や写真先駆者の上野彦馬、蘭学者の高野長英の名前も見えます。高野長英は長崎鳴滝塾(なるたきじゅく)でシーボルトから医学と蘭学を学んだ後、咸宜園の門をたたいています。幕府の異国船打ち払い令を批判し、弾圧を受けながらも開国を訴え続けた信念を持ち時勢を的確に判断できる学者で、淡窓は門下生の中で国家を忘れなかったのは高野ただ一人だったと評しています。

 日田は江戸時代天領として栄え、掛屋、幕府・諸藩の公金出納(こうきんすいとう)を扱った商人は莫大な利益を上げ、日田の街に繁栄をもたらしました。この経済的基盤は教育に活かされ、各地との交流、物流が新しい世界の情報をもたらし、開明的な咸宜園が育っていったのでしょう。田川に暮らす人々にとって咸宜園の教育はまさに眼から鱗(うろこ)の感があり、郷土の発展に大きく寄与したことは疑いない事実となっています。

(桃坂豊)

「ミニコラム」岳滅鬼峠(がくめきとうげ)を越えた淡窓

 英彦山の奉幣殿下には廣瀬淡窓詩碑があります。文化七(一八一〇)年九月に病気平癒祈願のため英彦山に参詣した折りの詩文です。淡窓は幼い頃から病弱で、若い頃夢枕に「彦山権現に祈るべし」とのお告げがあったといいます。信心の結果、結婚や子弟の教育にあたれるようになったことから、英彦山に詣でお礼をいいたかったのでしょう。田川地方では五三名(淡窓時代三三名)の塾生が数えられています。英彦山の山伏関係者は十三名(三九%)にのぼります。

(中野直毅)

廣瀬淡窓詩碑 彦山詩文(添田町英彦山)
彦山高處望氤氳 彦山高き処を望みて氤氳(いんうん)たり木末楼臺晴始分 木末の楼台 晴れ始めて分かる日暮天壇人去尽 日暮れて天壇 人去り尽くす香烟散作数峯雲 香烟は散んじて数峰の雲となる