県道五二号にある旧国鉄油須原線彦山川橋梁跡付近の川の中に、昭和五一(一九七六)年鉱害復旧工事でつくられたコンクリートの固定堰があります。百数十年前ここに成光・梅田・東白土の村人たちは、田に水を引く為に山から木を切り出し、「ムシロ」や「カマス」で堰(せき)を築いていましたが、それは雨が降るたび崩れる脆いものでした。川は水害のために急流の深い川に変わり灌漑が難しくなっていたので村には堰が必要でした。そこに明治元(一八六八)年、大庄屋の南野直七(のうのなおしち)が添田手永を兼任し伊原(いばる)に役宅を構えることになりました。手永(てなが)とは行政区に分けられた地域を束ねる責任者のことです。長年の苦難を知った直七は、大行事堰工事について詳細な計画書を作り香春藩に願い出ました。
当時の藩財政は火の車でしたが、これまでの直七の功績や手腕と緻密な計画書が提出されたことで藩から工事の許可が下りました。準備期間四カ月、十二月の渇水期を待ち工事を始めました。石工たちが大野から石を切り出して川の上の足場まで運び、それをモッコに載せ前後二人で担いで川のそばで下ろします。石を舟に積み替え目的地まで運んで沈め、石畳を組んで間に三和土(たたき)(叩き土に石灰と水を混ぜたもの)を詰めていきました。堰の規模は横一一一m、縦三六mの大きな石畳で中央を四三m開けて水を通し、両岸から石を重ねていきました。直七は成光・梅田・東白土の庄屋たちを率い、職人たちを監督し励まし続けました。要した歳月は二〇カ月、費用は千両以上。公費だけでは賄いきれず、直七は所有する田地十数町と秘蔵の骨董品を売却し費用を工面しました。この堰は昭和十九(一九四四)年、昭和三〇(一九五五)年の洪水被害で修復されたものの百数十年間耐えて水を送り続けました。その功績を称え「大行事井堰之碑」が堰近くに建てられています。碑の背面には当時の村の碩学(せきがく)(広く深く学問を修めた人)だった長野秋山(ながのしゅうざん)文案の工事の概要が刻まれています。
直七とともに堰工事に励んだ成光の庄屋植田恵三郎には與六(よろく)という息子がいました。堰工事開始のとき十五歳だった與六は勘定庄屋となり父を支えました。明治二〇(一八八七)年、成長した與六は添田の戸長として大行事堰上の県道掘り下げ工事を行いました。堰の工事に與六が関わったかは不明ですが、庄屋の父の傍で学び経験を積んだことは想像できます。大行事坂の県道掘り下げは大行事村と添田村との共同工事だったと推測されますが、大任にとって交通上最も重要な幹線道路の完成は與六の大きな功績の一つと言えます。
掘り下げ工事の様子を森琴石という京都の画家がスケッチしていました。作業場に柵が作られ、役人たちが監視指導しながら進められている様子が活き活きと描かれています。これは元小笠原藩士馬場半兵衛が家督を譲った隠居後、俳人の馬場半日翁(ばばはんじつおう)として依頼したものです。翁は、明治四(一八七一)年から明治二〇(一八八七)年秋頃まで大行事の道脇の丘の上に風流城(居宅)を築き暮らしていました。風流城は街道を往来する文人墨客や近在の庄屋、富農、神官、僧侶といった雅人たちが集う文化人のサロンのようになっていました。大行事の伊原側下り口にある風流城の碑は、長年の風雨に晒され文字は見えにくくなっていますが、素朴な川石に大きく「半日翁」と記され、その左横に「正四位山岡鉄舟」と銘があります。山岡鉄舟も関わった風流城に集った文化人たちは、変わっていく時代についてどんな夢やロマンを語り合っていたのでしょう。
幕末から明治初期の激動のなか藩や村人のため粉骨砕身し偉業を成し遂げた南野直七。民生に心を砕き、直七を助け堰築造に尽力した庄屋植田恵三郎。その子植田與六もまた大行事堰上の大行事坂掘り下げ工事の陣頭指揮を取り、その後も大任の発展に貢献し続け、明治―大正―昭和初期の激動の時代を駆け抜けました。