コラム 水害の落とし子 金田屋敷

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【関連地域】福智町

 赤池町と直方市の境界付近に大きな井堰(いせき)があります。これが有名な岡森井堰でこの西側、中泉と赤池に挟まれた一帯が昔から金田屋敷と呼ばれている旧能方村の範囲です。

 この地に漂着した二軒の農家と金田屋敷のことについて話してみましょう。金田村の枝郷、宮床(糸田町)に日高と藤村という二軒の農家が田畑を耕して暮らしていました。ある年(年代不詳)の夏のこと、来る日も来る日も雨が降り続き遠賀川流域では、大氾濫(はんらん)がおきました。川岸の近くに住んでいた二軒の農家は一瞬のうちに濁流(だくりゅう)に押し流され、家の者はなす術(すべ)もなく屋根裏の梁にしがみついたまま、流れに身を任せるしかありませんでした。二軒の家は大破することなく国境を超えて中泉村(直方市)付近に漂着しました。農家は金田村に帰るだけの資力もなく、漂着地に居座るより外に路はありませんでした。大水害に遭いながらも生存し続けた二軒の農家のことを、人間業を超えた天の所業として筑前の人も漂着地に住むことを咎(とが)めず、この地を金田村の飛地として黙認しました。しかし金田村の飛地では上野(あがの)手永を飛び越したことになり、都合が悪いので国境に最も近い草場村の飛地として認めることにしました。これが現在まで金田屋敷と言い伝えられている由来です。

金田屋敷地蔵(直方市金田屋敷)


 その他に「大昔は金田屋敷の事を能方と言っていた。その理由は福地神杜の神事を行うとき、御能楽をつかさどる者が金田屋敷に住んでいたので御能方と称していた。神事に奏楽する奏手(かなで)屋敷が後になって金田屋敷に転訛(てんか)したという」説や、「豊前国金田村の日奈子長者がこの地に住んでいた所から金田屋敷と言い始めた」という説。「日奈子長者が豊前金田村より迎えた養子で藤村馬之丞と名乗る者が能方村に住んでいたから能方村を金田屋敷と言うのはその為だ」という説もあります。

 諸説あり詳しい事は分かりませんが、明治四(一八七一)年に豊津県が調査した「第三〇区生歳書上」の草場村の末尾に能方村の住人十三軒・六八人の内訳として、日高姓四軒、藤村姓五軒、其他四軒が記され、能方村は豊前国の飛地であると明記されています。なお、金田屋敷に住む日高・藤村両家の菩提寺は金田町に在る浄円寺で、墓地は国境に近い豊前側の草場番所の裏山にあるともいわれています。

(井上勇也)