数百年前のことです。金田村には二百町歩あまりの水田がありました。ところが、この水田を潤す水源は上金田にある二重ヶ池の一つしかありません。雨の少ない年はいつも水がなくて田植えができません。わずかな水を苦心して汲み上げても、植付けた稲がすぐに枯れるという年が何年も続いていました。百姓の苦難を救うため清徳さんという人は思案し、彦山川の水を利用できないかと考えていました。当時彦山川は僅かな雨でもすぐに氾濫する暴れ川で、洪水の度に田や畑は水没し、耕した畑の土も境界の畦畔も、稲も流れてしまう厄介な川でした。清徳さんは洪水の度に和田山に登り水の流れや溜り具合を観察しました。数年かけて水路を作る路筋を確認した清徳さんは、村人を集めて彦山川に井堰(いせき)を造って金田の田圃(たんぼ)に水を流す構想を説明し協力を求めました。
糒(ほしい)村(田川市)の高柳に石組の井堰を築き、二里(約八km)に及ぶ灌漑(かんがい)水路を開削する工事に取り掛かりました。測量する器具も岩盤を掘削する機械もない時代の難工事です。縄を使って長さを測り、夜の暗いときに村人に提灯を持たせて水路敷きに並ばせて目測で高低差を調べました。百姓たちは工事が完成すれば己の田に水を張ることができると、期待に胸を膨らませて来る日も来る日も休むことなく鍬(くわ)を振るいモッコを担ぎ、土砂の運搬に精をだして働きました。開削工事が終わり、彦山川の井堰から水を流す日、清徳さんは白装束に身をまとい、水路の下流に行って、三方(さんぼう)に短刀を置いて静かに用水の流れ来るのを待ち受けていました。もし工事の失敗で、水が流れて来ないときは割腹して村人に詫びる覚悟であったといいます。やがて彦山川の川水が堰止められ、取水口から水路に水が引き入れられました。用水は水路の中を沿々と下流に向かって流れていきました。この水の伝わりと水音を眼にし耳にした村人は一大歓喜の声を上げ喜びあいました。井堰が完成してからは毎年豊作が続き、どんなに旱魃(かんばつ)の年でも水不足に悩むことなく豊かに暮らすことができたといいます。
金田村の村人たちは清徳さんの死後、その功績に感謝し、安永二(一七七三)年に追善のため墓碑(町指定文化財)を建て、稲荷神社の境内に「水利農功清徳神」の碑を建て毎年十月には清徳祭を行い、いつまでもその遺業を称えています。