石坂峠には田川・仲津の郡境石が道路脇にたっています。石坂峠は古代から重要な交通路でした。その石坂峠について歴史をひもときましょう。
石坂船路開削工事
石坂船路開削工事は小倉藩郡代杉生十左衛門が田川・京都都界にある石坂の水路を水運に活用しようとしましたが完成には至りませんでした。その後、文久元(一八六一)年、下赤村庄屋帆足通蔵、清原正直、下津野村庄屋高瀬兵蔵が協力して石坂船路を完成させました。当時の金額で五百両、一年間を要しました。種油を注ぎ焚き火で石を割る工法で一大難工事であったことが伝えられています。この船路開削により添田手永から長井手永へ米などの物資が運搬され、京都郡行事の御蔵に公米が収められるようになりました。また、峠には明治九(一八七六)年の石坂峠改修顕彰碑も建っています。
豊州鉄道工事に携わった人々
豊州鉄道行橋―伊田間は明治二八(一八九五)年に開業しました。全線の設計には野辺地久記(工学博士)を招きました。また、石坂トンネルを含む油須原(ゆすばる)から香春にかけての工区は、久米民之助を中心とする久米組が落札業者となりました。久米民之助も工部大学校の卒業で工学士、他の工区にも現地の責任者として工部大学校の卒業生が工事に携わったとされます。つまり、豊州鉄道を開業するにあたり、当時日本の先端技術の粋を尽くしていたと言えるでしょう。政府も筑豊地域の石炭産業に大きな期待を寄せていたのでしょう。
石坂トンネルの落盤事故
開業予定日も間近に迫った明治二八(一八九五)年七月十二日に不慮の事故が起きます。工事中のトンネル東口で土砂崩れが起こり、作業中の工夫十四名の命が奪われました。明治期の新聞『門司新報』に痛ましい事故として大きく紙面を割いて掲載されました。完成後、石坂トンネルの写真は、第四回内国勧業博覧会に紹介され、国内外に日本の近代化をアピールするという一役も担っていました。こうして歴史を振り返ると、石坂峠に関わる水運や鉄道に携わった人々の苦労が偲ばれ、そのことを忘れないようにしましょう。