鯰絵(なまずえ)は江戸時代に出版され、ナマズを題材に描かれた錦絵(多色摺りの浮世絵)です。江戸時代には大鯰が地下で活動することによって地震が発生すると信じられてきました。こうした民間信仰は安政二(一八五五)年に起きた安政の大地震の後、江戸を中心に大流行しました。
伝説によると、ナマズは普段は鹿島神宮の要石(かなめいし)で閉じ込められています。十月の神無月に鹿島大明神が出雲の国に出かけます。留守を預かる恵比須様が、鯛を肴にお酒を飲み過ぎて要石の抑えが効かなくなり、ナマズが要石を跳ね返して暴れたために地震が起きたと信じられていました。このように地震のときには鹿島大明神や恵比須の神様が信仰されてきたのです。掲載した地震の錦絵は、全国で起きた各地域の地震について鯰たちが鹿島大明神にあやまりを入れているものです。
安政期の地震からもう少しさかのぼり宝永期をみてみます。江戸時代中期宝永四(一七〇七)年に発生した地震は、東海、東南海、南海地震が同時に発生した南海トラフ巨大地震(M8・6)で、記録上では日本最大級の地震です。被害は東海、近畿中部、南部、四国、信濃、甲斐の国々で多く、北陸、山陽、山陰、九州にも及んでいたことが最近の研究で明らかになってきています。
尾張徳川家の記録『朝林』などの見直しで大阪の死者が数千人~一万とされていたものが二万一千人であることが明らかになりました。地震の四九日後には富士山が噴火(宝永の噴火)しました。宝永の噴火は十二月十六日ですから、宝永四(一七〇七)年から五(一七〇八)年にかけて南海トラフ巨大地震の余震は数年間続いたことは想像に難くありません。
田川にも宝永五(一七〇八)年頃に恵比須の神様に関連した伝聞が二つ伝えられています。ひとつは後藤寺町にある恵比寿神社です。宝永五年に創建され地元では昭和四(一九二九)年に久井酒屋や近藤商店裏側の道筋から、湿地帯であった大黒町の現在地に移転してきたと云われています。伝えでは旧道沿いに祠があり、大きな木の所に人々がよく集まって歓談していたといい、そこが「えびす社」旧跡地と考えられます。大黒町恵美須神社の神殿裏には古い「えびす社祠」があります。玉垣を再利用し土台としています。近世のもので風化が著しく拓本をとると「宝永五年」「昭和四年」と刻まれています。神社の縁起では「宝永七年」となっていますがよくわかりません。
二つめは香春町に宝永五年に関連する伝承を持つ恵比須社があります。殿町の須佐神社境内の恵比須神社は、文政十三(一八三〇)年の『香春町祇園帳』に、「昔横町に鎮座していたところ、宝永五年千手院境内へ遷座した」とあります。横町には天保八(一八三七)年の記録に「札の辻恵比須社」とあります。伝承によると宝永五年の千手院への遷座は恵比須社の祠が崩れたからといわれています。
こうした宝永五年に関連した恵比須社の話が他にもあるかもしれません。
糸田町の祇園祭「糸田祇園山笠行事」については、宝永三(一七〇六)年に今井津祇園社(行橋市)より、須佐神社に勧進(現在は金村神社に合祀)して行われました。宝永五年という説もあります。
今後も地震と恵比須信仰や祭について見直していきたいものですね。