思永斎と香春思永館 学びの館と小倉戦争

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【関連地域】田川市 香春町 川崎町 赤村 福智町

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 思永館は小倉藩の藩校です。その始まりは宝暦八(一七五八)年に、四代藩主忠総が朱子学者の石川麟洲の家を塾として公開した思永斎です。天明八(一七八八)年に思永斎の敷地を拡張し、翌年正月に学館が完成し、思永館と称し、藩士の教育にあたっていました。思永とは、書経の中から採られた言葉で、君子が身を慎み、思慮を永遠に行えば教えは広まり人々自ら勉励し君子の意を奉ずるという儒教の根本精神を意味します。

 慶応二(一八六六)年の長州との戦争で、苦戦した小倉藩は自ら小倉城に火を放ち、思永館も焼失しています。

香春思永館

 藩士やその家族は香春へ逃れ、慶応三(一八六七)年に仮藩庁を香春のお茶屋に置きました。藩の首脳たちは、文武の教育が復興の最良の手段であると考え、慶応三年五月四日、香春思永館を光願寺(こうがんじ)で開学しました。小倉から避難してきた藩士をはじめとする人々は、香春近辺だけでなく、田川、仲津、築城三郡に散在していました。また、藩財政も乏しく、大規模な学舎も造れず、教育機関を一か所に統合することは難しかったため、仲津郡、築城郡をはじめ、田川郡には正福寺(しょうふくじ)(赤村)や蓮則寺(れんそくじ)(川崎町)などの支館が設けられました。そして入学資格も緩和し、武士の子弟だけでなく、農村の子弟も就学しています。

元光願寺大楠(香春町香春)


明星山正福寺(照福寺)(赤村上赤)


育徳館

 香春藩庁は仮庁舎であったため、明治二(一八六九)年に藩庁が豊津(みやこ町)に移り、翌年には香春思永館も移転し、名称が育徳館に統一されました。一般的には、藩庁が香春から豊津に移るのに合わせて、思永館から育徳館に変わったととらえられています。香春に本館があるころ(おそくとも明治二年三月以降に)、藩校を思永館から育徳館とする記録が残っています。(慶応三年八月の記録をみると、香春山下町の四、五軒の町家(まちや)をまとめて、育徳館と呼んでおり、初等教育機関だったと考えられています。)

 育徳とは、第七代藩主忠徴が思永館講堂に掲げていた扁額(へんがく)の文字で、易経上経の「象」に由来します。

 明治三(一八七〇)年十月二四日に育徳館分校として、大橋(行橋市)のお茶屋に福岡県下最初の洋学校が開かれました。

 香春思永館は、明治維新前後の混乱の中で約三年間存続しました。香春思永館の職員や田川に逃れてきた藩士が、郷土の人々の教育に当たった事例は多くあり、田川地域の教育・文化に影響を与えました。その後の育徳館は、廃藩置県により、藩立学校が廃止されると、大橋洋学校と合併し、第三五番中学校育徳学校となり、明治十二(一八七八)年に豊津中学校と改称しました。明治初年から、田川でも学に志す人は、小学校を卒業した後、さらに志を持つものは豊津中学校へ進学しました。大正時代に各市郡に県立中学校ができるまでは、豊津中学校は豊前地区の最高学府でした。

(是石嵩伸)

神崎釈迦堂(福智町神崎)


現思永館(香春町高野)