その大砲の音が田川の地にも届いたと記されている「第二次長州戦争」。一〇万人以上の幕府軍を約四〇〇〇人の長州軍が武力で圧倒したこの戦いは「大政奉還」へとつながる倒幕ムードを一気に加速させました。
小倉藩小笠原家は、緊迫した情勢の中、三九歳で死去した九代藩主・忠幹(ただよし)の死を伏せてこれに対応します。世継ぎの豊千代丸はまだ四歳でした。忠幹の遺体は薬液を入れた大甕(おおがめ)におさめ、さらに頑丈な木棺で囲い、藩主寝室の地下に隠されたといいます。
「第二次長州戦争」の「小倉口の戦い」で幕府軍が惨敗し、諸藩が続々と撤退する中、長州軍の猛攻にさらされ、孤立して窮地に立たされた小倉藩は自ら城に火を放って香春へと退きました(小倉御変動)。
その後も依然として激戦が続く中、まさかの作戦が実行されます。隠したままの藩主遺体を長州軍の占領下から運び出すという、イチかバチかの行動に出たのです。その秘策は企救郡(きくぐん)菜園村の大庄屋・中村平次郎と千石屋の大石弥太郎、香春の森本滝蔵らが練り、夜陰に乗じて、立町の大工・吉衛門親子らによるゲリラ作戦が決行されました。
長持におさめられた遺体は、蒲生(がもう)(小倉南区)に運び出され、敵陣を避けるように黒崎方面へ向かい、直方(のおがた)、上野(あがの)を経由して、金田(かなだ)(福智町)へと至り、碧厳寺(へきがんじ)(福智町金田)の清石山山頂付近に密葬されました。戦火を脱した藩主遺体が、この地にたどり着いたのでした。
藩主・忠幹の死は「香春藩」存続後にようやく公表され、興国寺(福智町上野)で盛大な葬儀がとり行われました。家臣や僧侶など二〇〇人近くの整然とした行列であったといいます。碧厳寺には、小笠原家菩提寺の広寿山福聚寺(こうじゅさんふくじゅじ)から、住職および三二人の僧が、歴代藩主の霊位や宝物を持って留まりました。
碧厳寺西側の小高い平地では、一年九か月前に亡くなった藩主遺体を新しい棺に移し替える作業が行われました。周囲に小笠原家の家紋(三階菱)入りの幕が張り巡らされ、読経が流れる中、白装束に身を包んだ家臣と数人の僧侶が、長い時間をかけて行ったといいます。
当時、幕の中をこっそり見たおばあさんが「大きな甕の中から赤い色をしたお茶のような水がずいぶん出た」と話していたとか。また、この腐敗防止の薬液によって一帯が水浸しになったとも伝わっています。以来地元ではその地を「御廟(ごびょう)」と呼ぶようになったそうです。
小笠原媛子之墓 小笠原ゆかりの興国寺(福智町上野)にある小笠原貞正の正室・媛子の墓。小笠原貞正は、小倉藩の支藩で小倉領内にあった新田藩(後の千束藩)の藩主。貞正は、亡くなった忠幹の子で、当時まだ4歳だった幼い世継ぎ・豊千代丸(10代藩主・小笠原忠忱)を補佐し、藩主後見人として藩を監督した。