幕末の日本では外国との交易をめぐって国内に混乱が生じ、その影響は英彦山にも及んでいます。この時期、外国船を打ち払う「攘夷(じょうい)」という考え方が広がり、その先駆けとなった藩が長州藩でした。文久三(一八六三)年五月十日、長州藩は関門海峡を通過する外国船を砲撃しましたが、その対岸の小倉藩は静観していました。そのため、長州藩では久留米や秋月などの地域と協力して小倉城を挟み撃ち、門司の砲台を占拠し、下関と門司の両側から砲撃することで、外国船を打ち払う効果を上げる計画を立て、英彦山へも協力を求めたようです。英彦山は小倉藩により、所有していた土地を縮小されてきた歴史があるため、長州藩の計画を利用することで、その回復を企てました。
しかし、この計画は事前に小倉藩が情報を把握することとなり、十一月十一日に小倉藩の兵が英彦山へ押し寄せ、占拠しています。英彦山で最上位の役職にあたる座主(ざす)の屋敷や会所(集会所)などを取り囲み、計画に関与したと思われる約六〇名の山伏たちを捕まえ、小倉のろう屋へ連れて行きました。また、座主の教有も身柄の保護を名目に小倉へ連れて行かれ、翌年の元治元(一八六四)年十月まで英彦山には戻っておらず、小倉で命を落とした山伏もいました。
英彦山では小倉のろう屋で病死や刑罰により命を落とした政所坊有緜(まんどころぼうゆうめん)、義俊坊順道、正応坊浄典、本覚坊英山、成円坊貫之、座主家臣の城島主税(ちから)、佐久間勝信、生島大炊(おおい)の八名のほか、元治元(一八六四)年七月に京都で起きた禁門の変で長州藩に加わり、戦死した水口坊観清、京都六角のろう屋で処刑された厳瑶坊(げんようぼう)亮親、教観坊成蓮(じょうれん)の合計十一名、いわゆる「英彦山十一義僧」と呼ばれる人々を祀る社を明治二(一八六九)年に創建しています。この社は、英彦山神宮奉幣殿(国指定重要文化財)から参道を五〇メートルほど下った右手側に位置し、鳥居には「招魂社」の額が掲げられ、境内に十一名の墓石が建てられています。明治三十(一八九七)年に「田川官祭招魂社」となり、同四十三(一九一〇)年に新たな社殿が伊田町字鉄砲町(田川市伊田)に造られ、英彦山の社は「奥宮」として位置付けられました。大正八(一九一九)年になると、境内が手狭となったため、鎮西公園内(田川市伊田)に移転し、昭和十四(一九三九)年に「田川護国神社」と名称が変わりました。これに伴い、英彦山の社は田川護国神社の奥宮となり、現在でも毎年五月六日に英彦山神宮によって祭典が執り行われています。
さて、幕末の混乱を乗り越えた英彦山に次なる苦難が押し寄せました。それが明治政府による神仏分離や修験道禁止などの宗教政策です。古来、日本では神と仏を一体とする「神仏習合」という考え方が広がり、神社の境内にも寺院があり、英彦山でも霊仙寺(りょうせんじ)という寺院が建てられ、修験道の修行も盛んに行われる場でした。
明治政府は慶応四(一八六八)年三月、僧侶の姿で神社に勤めることを禁じ、四月には社殿周辺の仏具等を取り除くことを指示しています。英彦山では神仏習合の信仰が根付いており、明治政府の方針は受け入れ難いもので、その対応に苦心したようですが、八月には座主教有が僧侶を辞め、九月に英彦山神社(現、英彦山神宮)の宮司となりました。さらに、境内の霊仙寺大講堂(僧侶がお経を読んだりする場)を英彦山神社奉幣殿(神に供物(くもつ)などを捧げる場)に変えたり、大講堂のなかで祀られていた仏像などを片づけたり、少しずつ仏教的な要素を取り除いていきました。
しかしながら、長い年月をかけて守り続けられた信仰は完全には取り除かれず、現在でも境内には梵鐘(福岡県指定文化財)が吊るされるなど、その名残を見ることができます。また、奉幣殿の北側約二〇〇mの場所にある英彦山修験道館やスロープカー花駅に併設している山伏文化財室では、英彦山へ奉納された品々や信仰の対象となった仏像、英彦山修験道に係る資料が数多く展示保管されており、これらは英彦山で神仏習合の信仰や修験道の修行が盛んに行われていた証拠でもあり、英彦山の歴史を物語っています。