近世から近代への転換点となったのが明治維新と言われています。倒幕という武力クーデターにより古い体制を打破し、新しい政府を樹立するまで戦場になった地では、多くの血が流れ、長年にわたって築き上げられた財産も失われていきました。
倒幕の中心勢力となった長州藩と薩摩藩ですが、特に長州藩は関門海峡を挟み、九州の喉元を抑えている小倉藩との戦いは、避けて通れない難関でありました。
従来の戦闘集団の武士ではなく、農民や商人で組織された新しい軍隊として鍛え上げた長州藩軍は、精鋭師団である奇兵隊を小倉口に差し向け、小倉攻略戦を最重要作戦として位置づけしました。
慶応二(一八六六)年六月、長州軍が田野浦(門司区)に上陸したことからついに小倉戦争が始まりました。小倉藩を中心とした幕府軍は肥後藩、柳川藩、久留米藩の兵およそ二万人が集結しましたが、実際に戦いに参加したのは小倉藩と肥後藩だけでした。一方、高杉晋作が指揮する長州藩は、奇兵隊・長州藩報国隊などおよそ千人と少数でしたが、近代兵器と教練を受けた軍隊は強く、最初こそ肥後藩の奮戦で長州藩を撃破するものの、幕府総督小笠原長行(おがさわらながみち)の逃亡を機に各藩は引き上げ、残されたのは小倉藩と小倉支藩のみとなり、孤軍奮闘の様相を呈しました。
平地に城を構える小倉藩は、防戦不利と判断し、八月一日、家老小宮民部(こみやみんぶ)の指揮のもと、自ら小倉城に火を放ち本営を香春に退け、金辺峠を最前線としてゲリラ戦の戦法を取りました。
田川郡を守るのは小倉藩中老島村志津摩(しまむらしづま)で知略と武勇に長けた名将が守備につく小倉藩軍は金辺峠という天険を巧みに利用した陣地で奇兵隊の猛攻を何度も退け、不敗といわれた高杉晋作に黒星を付けた精鋭守備軍でした。明治の陸軍創設の中心人物である山縣有朋(やまがたありとも)も、のちの『懐旧記事』の中で、「九州で忠節を幕府につくしたのは小倉藩だけである。城が焼かれ、領地は占領されたが、尚死力を尽して累世の幕恩に報い、勢尽き、計窮してここに至れること、実に義を重んずるの挙動なりというべし。他日徳川幕府のために史を修むる者あらば、これを大書特筆して可なり」と書いています。
このように善戦した島村指揮の小倉藩軍でありますが、次第に戦力も消耗していき、慶応三(一八六七)年一月、企救郡(北九州市)を長州藩が占領することを条件として、両藩の間に和議が成立しました。
慶応三年三月から明治二(一八六九)年十二月に藩政府が豊津(みやこ町)に移転するまで、臨時政府とはいえ、香春は、「香春藩」として小倉藩政の中心地だったのです。
香春町にはお茶の門(藩庁門)や当時を偲ぶ街並みも残り、幕末の騒動は夢かと思うほどの静かな佇まいが散策できます。