鍋屋騒動とは、香春町にあった鍋屋という旅籠で起きた討ち入り事件です。慶応四(一八六八)年正月二九日の夕方、薩摩藩士児島次郎と名乗る人物の一行が、鍋屋に宿泊しました。児島一行は、香春藩庁に対して「薩摩藩士で上洛の途中である」と届け出ましたが、不審に思った藩庁の役人は、行橋の問屋に確認、薩摩藩士の通行届は出されていませんでした。そこで藩庁は、小倉から香春に来ていた薩摩の役人である鮫島元吉と評議し、児島の一行は薩摩を偽る不逞浪士であり召し捕りが決定されました。
藩庁ではひそかに藩士を集め、召し捕り隊を編成し、翌二月一日の未明に寝起きを奇襲するように踏み込みました。
藩庁側はこの召し捕りを大がかりに実施していますが、これは、鍋屋騒動の三日前の一月二七日に花山院党残党浪士の召し捕り要請が届いており、藩庁の役人は鍋屋の不審な浪士をこの残党と思い、敵は奇兵隊崩れで手強いと意識して対応したためと考えられています。児島一行の浪士たちは士分のものは二・三人で、大部分は長崎で募集した船乗りであったため、天草富岡代官所の襲撃や御許山にこもる花山院党の兵員構成と似ていることが分かっています。慶応三(一八六七)年十二月五日の天草富岡代官所襲撃に関わったのち、宇佐神宮域内の御許山にこもる花山院隊の本体に合流しようとしていました。
しかし、合流前の一月二一日に花山院党が長州報国隊によって壊滅され、それを知った児島は隊を解散して引き返し、香春と大橋に止宿したところを召し捕られたと考えられています。香春に泊まった組と途中で分かれたほかの組の一〇人ほどの浪士は、数日後に大橋(行橋市)でとらえられています。十三人の首級は罪人とされ、斬首され、西念寺の塀でさらし首にされました。哀れに思った蓮華寺の住職が藩庁に願い出て首を埋葬しましたが、罪人として扱われたため墓標はなく、目印として平石が置かれ、首級塚と呼ばれています。
捕らえられた浪士たちは、香春領内で暴行略奪をはたらいた事実もないため、出身地から身元引受人が来た九人は無事に帰郷し、残りの者たちは、藩内の欠員があるところで召抱えられました。