嘉永六(一八五三)年のアメリカ海軍艦隊司令官ペリーによる黒船の来航によって、石炭は従来の薪の代わりや漁労のかがり火、塩田においての燃料としてばかりではなく、鉄道や船舶の燃料、工場、製鉄などでの使用が急速に高まり、日本の近代化を推進する原動力になっていきました。
幕末まで統制下におかれていた筑豊の石炭業は、明治時代に入るとともに明治二(一八六九)年の鉱山解放の布告によって自由掘りが許可されると、資本の乏しい中小の炭坑が乱立しました。そこで、政府は明治五(一八七二)年に鉱山心得書、翌六年には日本坑法などの法律を制定し、石炭(地下鉱物)の国有化が明示されました。
明治十八(一八八五)年、五郡(田川、嘉麻、穂波、鞍手、遠賀)の炭坑業者によって筑前国豊前国石炭坑業組合が結成され、同十九年には筑豊五郡川艜(かわひらた)同業組合が設立され、川艜による石炭の輸送体制が整備されました。こうして「筑豊」という地域名が生まれ、遠賀川流域の石炭生産地「筑豊炭田」が誕生したのです。
川運搬の最盛期には八千艘もの川艜(五平太舟)が遠賀川水系を往来していましたが、明治二四(一八九一)年に若松~直方間に鉄道が開通し、路線の拡大に伴って大量輸送が可能となった鉄道輸送に明治二七(一八九四)年を境に逆転され次第に衰退していきました。
明治二〇年代以降、貝島・安川・麻生などの地元資本家が成長し、明治二七(一八九四)年の日清戦争、同三七(一九〇四)年の日露戦争を契機としてわが国の産業革命期に入ると、三井・三菱・住友・古河といった中央からの大手資本が進出してきました。
炭坑は常に水とガスとの戦い(註)といわれるほど水とガスに悩まされてきたため、排水、通気、採炭技術へと機械化が進み、蒸気力によるポンプ、扇風機、巻上機の使用が急速に広がり、炭坑も大規模化していきました。それから各炭坑が独自の自家発電によって、蒸気力に代わって電力を使用するようになっていきました。
註:坑内の排水処理、出水事故、ガス爆発事故、火災事故など
明治三三(一九〇〇)年、三井田川炭鉱が設立されると、田川は三井を中心とした炭鉱の町として発展しました。明治期の日本三大竪坑と呼ばれることになる三菱方城炭鉱(福智町)、三井田川炭鉱(田川市)が明治四三(一九一〇)年に、製鉄所二瀬炭鉱(飯塚市)が翌四四年に竪坑を完成しています。
仕事を求めて全国から移住者が訪れるようになり、在来の地域住民と各地から集まってきた人々によって、新しい共同体社会が形成されていきました。また、中央大手企業の進出によって中央の文化がダイレクトに流入し、いちはやく大正デモクラシーの洗礼を受ける契機にもなっています。
明治四四(一九一一)年に本社や中央からの来客者への接待のため、建築された百円坂倶楽部は、水洗トイレなども備えた最新の木造建築でした。所長をはじめとする幹部職員住宅の一角にあり、東京で三井の職員と縁故のあった文化人の来訪も多く、作家の森鴎外や斎藤五百枝(いおえ)、和田三造、鶴田吾郎、浜哲雄ら著名な画家たちも寄宿しています。
まさに田川地域は国内最大の石炭生産地「筑豊炭田」の中核として繁栄し、新しい時代の人間・文化の集積地でした。長年にわたって、中央から田川への文化の流入窓口となっていましたが、平成十四(二〇〇二)年に解体されました。
大正時代になると、第一次世界大戦による石炭の需要増大で一時的に好景気を迎え、大正八(一九一九)年には全国出炭量が初めて三千万tを超え、三一二七万t(筑豊炭田一二〇〇万t)に達しますが、大正一〇(一九二一)年には不況となり人員整理や不能率炭鉱の閉鎖、出炭の制限が行われています。以後、炭鉱では生産合理化による徹底した採炭能率の向上をめざし、コールカッターやコンベアーなどの新しい機械が導入され、封建的な納屋制度も消滅していきました。昭和六(一九三一)年の満州事変、同十二(一九三七)年の盧溝橋事件(日華事変)、同十六(一九四一)年の太平洋戦争へと軍需産業の増大に伴い、昭和十五(一九四〇)年には全国出炭量五六三一万t(筑豊二〇四九万t)と史上最高を記録したものの、昭和二〇(一九四五)年には敗戦によって全国出炭量二一三四万t(筑豊一一九六万t)に激減しました。
戦後は日本経済の復興のための増産体制によって出炭量も増大したのですが、昭和三〇(一九五五)年以降は石油との競合に敗れ、昭和三七(一九六二)年、三菱方城、古河大峰、同三九(一九六四)年には三井田川が閉山。このように昭和三五(一九六〇)年以後は「ナダレ閉山」を起こしていきました。そして、同四八(一九七三)年の貝島大之浦炭鉱(註)の閉山によって明治以来約百年にわたって日本経済の近代化に貢献してきた筑豊炭田の歴史に幕が下ろされたのです。
註:露天掘りは昭和51(1976)年